人生の過ごし方(1)

令和6年9月12日(木)猛暑日

人生の過ごし方は色々な生き方があると思う。苦しみばかりの人生だと言って、自分の運命を恨んでみても、何も変わりはしない。恨みにとらわれていては、心が狭くなり、ゆがんでしまう。今の人生がどん底ならば、そこから人間として正しく生きる道へはいあがり、それをひたすら実践していくことです。釈迦は四諦の法を説き十二因縁さらに八正道の実践を説いたのです。そうすれば必ず苦を乗り越えた境地に達することが出来るのだ。と言っています。八正道とは以前にも記載しましたが、真理に即した八つの正しい道ーー正見・正思・正思・正語・正行・正命・正精進・正念・正定の事です。

   日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)

真っ暗な日本海に向かって唱題する、日蓮の姿。
「現在の大難を思い続くるのも涙、未来の成仏を思うて喜ぶにも涙せきあえず。鳥と虫とは鳴けども涙落ちず。日蓮は泣かねども、涙ひまなし。この涙、世間の事にあらず、ただひとえに法華経のゆえなり。しからば、甘露の涙というべし」
日蓮も、法華経の文字をたんなる文字として読んだのではありません。彼は、文字をも比喩であるとして「今の法華経の文字は皆生身の仏なり。われらは肉眼なれば文字と見るなり」と言います。文字は生身の如来だが、我らは人間だから、人間の目で見るから、文字が文字としか見えないのだ、と言うのです。このように、法華経は深い真理を多くの比喩によって表現しているのです。

 

読経眼(どくきょうがん)

前回、比喩の話を書きましたが、法華経の比喩も、とりとめのない作り話として読まされるか、経典の語る様々な比喩の話の底に潜む真実が読み取れるかは、経典をよく読みこなす
「読経眼」を養うか否かにかかります。ものごとを平面的で実証主義的な見方に偏することなく、じっくりと見つめんとする、豊かで素直な心(柔軟心)これを取り戻そうと努めながら読むと、読経眼は自然に開けてくるものです。 と記されています。

比喩(ひゆ)

法華経の教えの中に「比喩」と言われる事が多く見られます。「比喩」とは、たとえ話の事です。全てお話の中身は現世に置き換えて読むことです。釈迦は相手に合わせて譬話(たとえ)話で教えを説いて理解をさせてのです。比喩の説法の多い所がこの法華経です。又、比喩の特徴は、”考える間‘‘のあることです。お経は文字の意味だけで理解するのは、普通の散文を解釈する方法で、詩を味わう態度ではないから、感得の度合いがどうしても浅くなるわけです。法華経を学ぶ人は、歌人岡本かの子さんの言葉に「象徴詩に向かうつもりで取り組みなさい」との助言をしています。

 

真実と事実

令和6年8月27日(火)赤口 猛暑日 四緑木星中宮日 みづのと い

「真実」「事実」の意図。
「事実」とは、「事柄」です。花が咲いたり鳥が鳴いたりする目前の現象、事柄のことです。
「真実」とは、世間の通念では、嘘でない本当のことですが、仏教用語では、さらに「真理がありのままに、隠すことなく事実にあらわれている」と言う深い意味になります。「真実とは、事実の奥にひそむ真理」となります。
リンゴが樹枝から地に落ちる現象は、誰の目にも見える「事実」です。この事実の奥に万有引力の法則(真理)
がひそんでいると理解するのが「事実」を知る一例です。事実は目に見えても、心理は目に見えません。しかし、詩的な心をもってすれば、目に見えるリンの落下に、目に見えない引力を見ると表現できましょう。

 

「諸法・実相」「五如是」

「しょほう・じっそう」「ごにょうぜ」と読みます。
「諸法」とは、すべての現象や事柄の事です。その「実相」(すべて存在するものの本当のすがた)「諸法実相」とは全ての教えの根本です。
釈尊は、「すべてのものごとや現象(諸法)が、どのようにかかわりあって生じ、またどのように存在するか」を十箇の枠組みにまとめて説きます。言い換えれば、仏教思想の因縁の法則、カテゴリーで
「十如是」もありますが、「五如是」鳩摩羅什(くまらじゅ)の漢訳による教えで簡単な訳です。
 
1)自分は、何であるか
 2)自分は、どのようなものであるか
 
3)自分は、何に似ているか
 
4)自分は、どのような特徴があるか
 
5)自分は、どのような本質を持つか
となって、自分の内側を凝視する枠が決まります。道元(曹洞宗の開祖、1253年没)の「仏道を習うというのは、自己を習うなり」を助言として、この「五如是」を学習するのも一案でしょう。



 

 

山本五十六氏の言葉。

令和6年8月13日(火)猛暑日 仏滅

第二次世界大戦の連合艦隊司令長官の有名な言葉があります。職場やいろいろなところで応用されています。人を使う人は、人を使いながら人を創る人でありますが、人を使うことにより、使う人もまた自分の人間が創られていくからです。では山本五十六連合艦隊司令長官の有名な言葉を書きます。
「ヤッテミセ、ヤラセテミセ・ホメテヤラネバ、人ハ動カジ」聞いたことがあるでしょう。  

  

 

 

 


 

 

放逸(ほういつ)

放逸とは、たんなる怠ける意ではありません。働くでもない遊ぶでもない、いわばボサッと時間を空しく過ごしているのが放逸です。働いたり学ぶにとっては、めざわりで迷惑な存在です。あなたは放逸していませんか?

人の心、人生観(法華経入門書より)

令和6年7月12日

仏教思想では、私たちが生きたり、死んだり、迷ったり、さとったりする現実の世界を「三界」と言います。三界は「欲界・色界・無色界」の事で、仏教の人生観でもあります。
仏教思想の人生観ですが、転じて私たち人間の心が、移り変わって止まない状態を示します。私たちの心の世界を見ると、絶えず欲・色・無色の世界をぐるぐるとめぐり続けて果てしがありません。この世界を輪廻(りんね)しているのです。
三界を苦と意識しないで不感症の症状にこそ、苦の原因が潜んでいるのです。すなわち、苦の事実を知らず、したがって苦の原因を知らず、また知ろうとしないから、苦はいよいよ倍増するのです。

 

2024-07-09

読経眼(どくっきようがん)

「読経眼」とは、物事を平面的で実証主義的な見方に偏することなく、じっくり見つめんとする、豊かで素直な心を取り戻そうとつとめながら読むと、読経眼は自然に開けてくるものです。(法華経入門 松原泰道著より)
白隠は文字を超えた高次の”文字でない文字”を読み取る「読経眼」が開けたのです。
と書かれています。難しいですね。

 

冷暖自知(れいだんじち
体験しないと分からないこと

冷たいか暖かいかは、自分で触ってみないとわからない。人が体験しただけでは、本当のところわかりません。その人にとって暖かかったり、その人にとっては冷たいかもしれませんが、その感じ方さえ様々です。自分で体験することが必要なのです。見ただけ、聞いただけの知ったかぶりで判断すると大きな間違いも起こします。物事の真の醍醐味は自ら近ずき、触って見ない事には味わえません。
 

且緩々(しゃかんかん)
まあ、落ち着いて

あわてるな。あせるな。肩に力が入りすぎ。落ち着きなさい。呼吸をととのえて。急ぐ人ははたから見ると滑稽です。どの道も、急いで極めることはできません。急がば回れ。
緊張したお客さまを迎えたら、まずはお茶でも召し上がれ。とこの一言をかけてあげたい。
人生だって、時にはふと立ち止まり、これで良いのかとゆっくり考える時間が大切。と書いてありました。ちょっと立ち止まって考えるのも一つの案ですね。人生は長いですから。

 

千里同風(せんりどうふう)
あなたの友は遠い空の下で

遠く離れていても、遠く離れていても、そこには同じ風が吹いている。
ある日、筆不精の友人から短い手紙が届く。そこに書かれた文字は、少なくても、行間に彼の気持ちが読める。同じ心境だな。今、この場所で見渡す空は何処までも続き、遥か遠くのその空の下に、同じ心を持った人がいる。同じように笑い。同じように悲しみ、同じように感じている人がいる。毎日見ている顔だけがあなたに共感しているのではなく、むしろ会ったこともない人々の頭上にもこの同じ空が広がり、同じ星を見ていることに思いを馳せましょう。

 

夢中夢(むちゅうむ)

「夜見る夢の作者は自分」という意味だそうです。あなたの見た夢は、あなたの記憶がつくったものと言えます。それもそのはず、あなたの心が描いた夢です。ヒーローもヒロインも、仇役もバイプレーヤーも、みんなあなたの知り合いばかりだったでしょう。あなたが夢の世界を広げてみたいなら、起きている間に、具体的な想像を働かせてみる事です。夜見た夢は形を変えて、あなたの現実を後押ししてくれるようになるでしょう。

歩々是道場(ほぼこれどうじょう)

何が無いから、かにが無いから出来ない。そんな言い訳を人を許さない禅語です。いつどこでも一歩一歩移動していくごとに、その場所こそが修行の場。いつも道場にいると思えということです。
生きているすべての瞬間が修行の場なのです。呼吸も姿勢も、歩く姿も、言葉のひとつも。
だから一瞬一瞬に気が抜けません。目の前にした朝食が、どこから来て、誰が運んできたか。自然の恵みの収穫と人の手を思えばキッチンも立派な道場です。

元気(げんき)

あなたの元気は順調ですか

世の中は「気」でみちている。流れる川にも、樹木にも、燃える炭にも、指輪にも、あらゆるものに「気」が宿っていて、その「気」は弱っていることもあれば、強く感じられることもある。その根本になるのが「元気」。
老若男女が頻繁に使う言葉のナンバーワンかもしれません。軽い挨拶言葉ですが、大珠慧海の「諸方門人参問語録」に出てくる禅語です。「お元気ですか?」というのは、この「元気」が好調に気を発揮していますか?と確認しているわけです。「元気」が活性化している時に物事に取り組めば、相手が人だろうと植物だろうと道具だろうと、波動のように「気」が伝わります。もしも「気」のない返事なら、ゆっくりそおっと、あなたの元気を伝えてください。

 

一雨潤千山

(いちうせんざんをうるおす)

誰にも同じように。という意味です。たったひと雨があらゆるものを平等に潤す。と言う言葉です。禅語では、すぐれた仏法がすべての人に恩恵を与えるという意味です。一部の人だけに役立つ仏法というのはありません。誰にも平等に人生や世界を教えてくれる。のが仏法です。僧侶にだけわかるものでもなく、外国人にも他の宗教の人々にも恩恵をもたらすものと考えていいでしょう。

吹毛常磨(すいもうつねにます)

修行に終わりなし

能力にあぐらをかいてしまったら、鋭さは鈍り、堕落がはじまる。優秀な吹毛剣でさえそうなのです。だから、常に磨き続けることが肝心です。修業に終わりはありません。
この言葉で常に磨けと言っているのは「吹毛剣」という剣のことです。吹毛剣の切れ味は、たとえば鳥の羽がふわりと落ちて来ただけでスパっと二つの切れてしまうほど。人間の煩悩やしがらみでさえ、みごとに切ってしまいます。

 

新旧をとりまぜてこそ

裂古破今

「いにしえをさきいまをやぶる」と読むそうです。
古いものは時代に合わない事があるものの、時を超え知恵もまた満載。逆に新しいものが無条件にいいなんてことはない。新旧にとらわれず、本物を選ぶ目を持って自由に組み合わせてお幸せに。 と記されてありました。

単刀直入(たんとうちょくにゅう)
相手の立場に近ずいて

玄関でもじもじしたって何も始まらない。人生は待ったなし。ピンポーンと玄関ベルを押してしまえば物語が始まります。相手を傷つけないように、単刀直入という「おもいやり」があります。持っていたいのは、あなたの不器用でシンプルな刀一本。いくつもの刀で小手先を使うより、自然な気持ちを一本に集中させてこそ単刀直入。重心を相手の立場にグッと近づける気合がなければ、ひょいとかわされてしまいます。

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担当者:ライフアドバイザー
あかおぎ ひろし

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汝、悩むことなかれ。どんな人でも悩みの無い人は居ません。
早く心と気持ちを軽くして、前を向いて生きて行きましょう。
多くの方が心と気持ちを軽くして幸せになっています。
どんなことでもご一報ください、無料で相談させて頂いています。