調子に乗るな。

勢い使い尽くすべからず

誰でも勢いに乗っている時は、調子に乗って突っ走る傾向があります。そんな絶好調の時こそ細心の注意をし、行動を慎むようにと言う禅語です。
勢いに乗っている時は、力まかせに普段の用心深さも忘れ、人の助言も聞かなくなっているものです。アドレナリンが発揮され、自分が特別な人間のように思えてしまう時。誰でも何度となく経験するもの。歳を重ねるごとにそれが永遠に続くものではない事を、皆学んでいきます。
歴史をふりかえれば、勢いに陰りがさすのは敵側の要素でななく、きまって自分が原因。怪我や病気もそのうちです。

惑わされず、勘違いせず。

令和5年6月23日(金)小雨

「鏡分金殿燭」(かがみは きんでんのしょくをわかつ)・・惑わされず 勘違いせず という意味。「鏡」は自分が映すものに惑わされない。
どんなに豪華な宮殿の中に居ても、絢爛に輝く蝋燭に囲まれていても、「鏡」は自分を勘違いすることなく、無心でその蝋燭を映し出します。輝いているのは自分でなく、蝋燭であると言う事を知っているのです。そんな「鏡」のようであれ、という言葉です。                      人によって対応を変える人は、はたから見ても嫌なものです。「鏡」の本文はありのままを映し出すこと。「鏡」はただ無心で態度を変えず、映った相手を自分と見間違えることもありません。


 

自灯明(じとうみょう)

依頼心を捨てなさい。

禅語に自灯明という言葉があります。我々は、頼りにする人がいなくなっても生きてゆかねばなりません。今まで頼りにしていた光がなくなったら、どうやって生きていけばいいのでしょう。そんな時禅語では「自分が灯明」だと言う事に気付きなさい。と言います。これと対句なって「法灯明」という言葉があります。「仏の教えがともしび」仏の光は足元を照らす光になり、迷い悩む闇で道を照らしてくれます。「法灯明」を頼りに進むうち、自分自身が「自灯明」となっていくのです。
あなたが進む道を照らしてくれるのは、消えることなくあなたの前に現れている羅針盤としての仏の教え。そして、その光をまとったあなた自身なのです。

騎牛求牛 うしにのってうしをもとむ)

求めるものは、あなたの手にある

誰ですか? 牛に乗っていながら牛に乗りたいと言う人は。
誰ですか? 給料が良くて、社員のレベルが高くて、自分の能力を正しく評価してくれて、将来有望な会社に転職したいと捜している人は・・・・。それは今勤めている会社じゃないですか?
誰ですか? 美人に生まれたかったといつも嘆いている人は・・・・。自分に素肌と笑顔が美しい事に気付いていませんね。
求めるものは、外ではなく内にある。自分の牛に、もう一度愛情を注ぐと思い出せます。良い牛だったこと、良い牛に乘っていた事。
自分の仕事に迷っている方はもう一度考えてみる事がありそうですね。(>_<)

雲収山岳青(くもおさまってさんがくあおし)

「自分がはっきり見えてくる」という意味です。禅語は「あなたはあなたらしく、そのままでいい」と教えてくれます。「求めるものはすでにその手の中にある」という。
おかしい。そんな簡単なわけはない。私は私のままでいいと言ったって、「私」は本来どうゆう人間なのでしょう。そこがハッキリしなければ「私らしく」がぼやけます。
私が本当に求めているのは何だったのかしら、これまで雲がかかって求めるものがなんだか見えない。
雲が切れて青々とした山が現れるように「私」の本来の姿をクッキリ見たいものです。

自分を見抜くより

今回より「自分を見抜く」として記載します。
不識(ふしき)知る必要ももない。という言葉です。
そんなことどうだっていいじゃないか。昔、中国で、皇帝が達磨大師に質問をしました。「私の前に居るお前は誰か」大師は一言いいました、「知らない」。それが「不識」です。知らなくていい。知ってどうする。知る必要もない。そんなレベルを超えたところに「不識」があります。
米国では履歴書に性別や年齢を書くこともありません。もちろん写真も貼りません。

花枝自短長(違いを認めて)

かしおのずからたんちょう

同じ樹でありながら花の枝には短い物も長いものもある。それぞれの枝に違いがあるからこそ全体の姿が美しく整い、バランスがとれる。この自然の摂理は、人がそれぞれに個性を持って生きていいことを教えてくれます。地球の全員が同じだったらどんなに恐ろしくつまらないか、歴史が証明しています。
これで「美しく生きる」禅語は終了です。次回からは「自分を見抜く」禅語の紹介です。

看々臘月盡(かんかんろうげつじん)

「命には終わりがある」
死んでその人の一生が終わる。自分の命も容赦なく尽きていくのだから、その事から目をそらさずに「命に限りがあることをよく見ていなさい」という意味の禅語です。
臘月とは12月(陰暦)の事で、1年が終わるのと命が尽きるのをかぶせています。一日一日命は尽きていく。
 

もてなしの極意  落花流水を送る

花びらは、風に舞い散ると、清流がどこかへ連れて行ってくれます。
清流は、ただただながれ、落ちてきた花びらを運んでいきます。
花は流されるために散ったのではなく、川は花を運ぶために流れているのではありません。どちらも相手から頼まれたわけではなく、どちらも恩をきせるわけではありません。その双方ともが自分の仕事を無心で全うしているからこそ、この図は美しいという禅語です。
もてなされる人と、もてなす人の関係に、こんな無心が欲しい所です。どうだ美味しいだろうという押しつけと、褒められるための作為があっては興醒めです。落花流水の関係が理想です。

美しく生きる。「閑古錐」(かんこすい) 

職人さんの道具は、持つ指の形に凹みが出来て黒光りした何とも味のあるものです。道具といえども様々な素材を相手に仕事をして来た長い経験に裏付けされたもの、でその道具を見ただけで歴史の重みを感じることが出来ます。「閑古錐」とはそんな道具。使い込んで使い込んで先が丸くなった「きり」の事です。昔は鋭かったであろう「きり」。
ただ鋭いだけで攻めていた年月を経て、今は無駄な動きも一切必要なく、落ち着き、読み深く、しかし悟りの心境さえ忘れて、若い者の仕事ぶりを見て穏やかに微笑む老人に似ています。そんな先が丸くなった「きり」には迫力さえあって、尖っていなくても目的は充分に果たせそうです。

美しく生きる。予想を超えた展開。

一夜落花雨 満城流水香(いちやらっかのあめ まんじょうりゅうすいかんばし) 

美しい花を、叩いて落としてしまうほど降った昨夜の雨。一夜明けたらすっかり晴れて、雨が潤した街は花の香りで満ちていた・・・・・・・。
雨は花を散らすつもりで降ったのではなかったのに、「なぜあんなに美しい花を落としてしまったのよ」と雨を責めた私。そして明朝、雨は川の水となって花の香りを運びます。落ちてなお街中を香りで満たす花・・。人を責めるのはやめよう。起きた事をなげくのもやめよう。次に何が起きるのか分からないし、何のために起きている事なのか予想もつかない。人は、花は、雨は、ただ無心に自分の役割を果たすだけ。あの雨が教えてくれました。

美しく生きる。

一以貫之(いつ もってこれをつらぬく)  やわらかい心で

令和5年3月26日(日)赤口 雨

やわらかい心で、一貫して変わらず道を進むこと。と言う事です。
楽な方楽な方へ、目移りしてそのたびに都合のいいようにポリシーを変え、浮気ばかりしていると、物事の本質は何時まで経ってもつかめません。しかし、単に頑固に硬直して一本道を行けと言っている分けではないようです。柔軟な心と謙虚な態度があってこそ、一つの事が貫けます。ゆずれること、譲れない事の選択は、やわらかい心でしましょう。ということですね。


 

魚行きて水濁る。
わたしの歩いたあとが道になる

禅語にも「起きた事は隠せない」という言葉があります。魚が泳げば水が濁るというのです。
黙っていればバレないと思っていても、何か証拠が残っているものです。たとへば「顔に書いてある」。悪い事をしたばかりではありません。良い事をした時も同じです。口の出して言わなくともどこかに跡が残っています。あなたが歩んだ道は、見る人が見ればちゃんとわかる。行動したのに何にもならなかったと思っても、いずれその行動があなたを助けるために帰ってくる瞬間があります。ああ、あの時の苦労がこんな形で実を結ぶとは。行動は必ず痕跡となる。だから迷わず行動してください。いえ、迷ったら動かずにいて下さい。

真玉泥中異(しんぎょくでいちゅうにいなり)

美しく生きる

あなたは今、どんなところにいますか。にぎやかな場所、華やかな場所。それとも、いやいや通う学校、パッとしない会社。暗い家・・・・・・・。
あなたが本物の宝石なら、泥の中にいたってその輝きは失われません、という禅語です。
今いる場所があなたの居場所。周りなんか気にせず自分は自分で勝手に輝いていればいいのです。いつかそんなあなたを誰かが見つける。そんなあなたに誰かが気付く。
あなたの輝きもその才能も、本物なら泥にまみれたって曇らないから、染まることなど心配しないでいってらっしゃい。
 

感謝です。

何はともあれ、一日を何事も無く無事に過ごせることは素晴らしい事です。常に感謝の気持ちを持って他の人が喜んでくれるような心で過ごすことが大事です。私は常日頃、無事に一日を過ごせたことに感謝の心でいます。無事に一日を過ごす事が出来ない場合は、自分の心に何かあるのです。(>_<)心や気持ちは常に前を向き生きる事ですネ。

2023-03-08

禅の人生観

丹精していくことによって完成していく。そういうのが禅の人生観、世界観なのです。
全てを進行形で見ていくのが禅の世界です。この移り変わって行く事を仏教語では「無常」と言います。
全てを動いているままに、と言う事は、生きた状態で受け取っていく。この禅の人生観、世界観を、「現在進行形人生観」と呼んでいるのです。全てのものが移り変わっていく、だからそれを1面から言えば、止まる所が無いんですね。止まらずにどんどん移っていく。もし止まるのを厭(いと)うなら、それは「執着」です。何かの虜になってしまうのです。禅では、そのような動きが取れないような考え方を嫌うのですね。どんないい事でも、それに執着したら悪になるという見方が禅にはあります。だから、すべてをingの進行形で処していく。そこに進化というものがあるわけです。

2023-02-27

自分の中にある存在の源を自覚する。

令和5年2月27日 月曜日 暖かな春日和。

うまれながらに眼は横に、鼻は縦についていると言う事だけではなく、人間を人間たらしめる仏性が生まれながらに具わっている事実を、道元は見やすい例で言っておるのです。
大きな権威や真理を自分の外に置かずに、自分の中に置くので、これを仏教語で「内道」といい、権威や真理を外に求めるのを「外道」と言って区別します。そして自分の内面の権威に気付く事を「自覚」と言います。
人が振り向きもしない、当然・平凡な事実に私たちは深く謙虚に対応していきたい。そこに生き甲斐も感じられてくるのです。雑草が一生懸命に生きている。「ああ、そこに自分の生き方がある」と森羅万象が私たち一人一人に生き方を教えてくれるのです。「覚」とは、この心の奥に深くうなずくものであって、それが人生を豊かなものにしてくれます。ゆえに平凡な事実でも角度を変えて深く見つめることが大事です。

2023-02-23

「工夫創造」心の中にある受信装置

科学でも芸術でも、深く見つめる、”凝視”によって生まれる。と書いてあります。29歳で亡くなった詩人の八木重吉は、花を見て、「花はなぜ美しいか。一筋の気持ちで咲いているからだ」と詩んでいます。人が見ておろうが、そんなことは関係なく、咲いていると。逆風の時ほど、誰も自分の悲しい気持ちは分かってくれない。誰もわかってくれない場合、自然をじっと見つめていると、無心の自然現象が希望を呼び起こしてくれます。誰が見ていなくても一生懸命に咲いている花が、呼びかけてくれるのです。そして、どうしたら希望を持って生きられるだろうか?それをよく考えるのが「工夫創造」という心のはたらきです。
「感謝(感動)・希望・工夫」を私は「プラスの3K]と呼んでいるのです。物を見る時には、この「プラス3k
」の”杖のことば”が大事だということですね。   この言葉で何となく元気が出ました。

 

ホッとしました。

令和5年2月18日(土)仏滅 八白土星中宮日

今夜一杯飲んでいると電話です。神奈川県からです、何度も電話相談を受けている方でした。声を聴くとあまり元気が無いようです。話を聞くと私の元気を貰いたいとの事でした。私は元気です。いろいろお話して結構長電話でしたが、元気を取り戻したようです。何時も赤荻さんに元気を頂いて感謝ですと言って切れました。

2023-02-17

生きがいを見つける

令和5年2月17日(金)先負 晴れ ひのえうま 七赤金星中宮日

「当然の事柄に感動するところに希望が生まれる」
「何でもない当然の事柄だ」と、「フーン」と鼻の先で片付けてしまうのか。それとも何でもない事に熱意を重ねていくのか。対応の仕方ではその人の人生が豊かにもなり、貧しくもなると思うのです。
よく「生きがいがない、生きがいがない」と悩まれる方がおられます。「生きがいは何処にあるのでしょうか?」目の前の淡々とした当たり前のことを良く見つめる。その見つめ方により生きがいが見つかると思うのです。では、どうやって見ればいいのか。
その見方の第一番目は、何でもない事柄から感銘を受ける事です。感動と言っても良いのですが、当たり前であると言って見逃してしまう前に、それをもう一度じっと見つめてみる事です。 と書いています。

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担当者:ライフアドバイザー
あかおぎ ひろし

人は誰も幸せになるために生まれてきたのです。
自分や家族のいろいろなお悩みの相談を受けています。
汝、悩むことなかれ。どんな人でも悩みの無い人は居ません。
早く心と気持ちを軽くして、前を向いて生きて行きましょう。
多くの方が心と気持ちを軽くして幸せになっています。
どんなことでもご一報ください、無料で相談させて頂いています。