「法華経」こそ衆生の心を清浄にする

今日から、法華7喩のうち「安楽行品」です。釈尊は、安らかな心で自ら楽(ねが)って進むために「四法」を説くのが、この章です。
第一に、いつも忍辱の心を持ち、柔和善順の態度で、あわてふためくことなく、一切平等で、慈悲の行いをしていくことです。自分の行いが立派なのだと思いあがることなく、地位や勢力のある人に、何かを求めようとして近づいたり、何でも反対する一言居士になれ親しんではなりません。
第二に、他人のあやまちや経典のあら捜しをしたり、他人の長所や短所を批判したり、好き嫌いの心を起こしてはなりません。
第三に、嫉妬の心を持ったり、他人に何かを期待しておべっかを使ったり、自分の心を嘆いてはなりません。
第四に、すべての人々を「法華経」に帰依させようという誓願を起こし、これを身命を捨てても実行していくことです。
四つの安楽行を説いた釈尊は、「法華経」がどんなにすぐれた教えであるかを、「髻中の明珠」(けちゅうのみょうしゅ)の喩話をもって説明する。
「安楽行品第十四」は、四つの安楽行を説き、「髻中の明珠の譬え」をもって「法華経」の教えが、どれほど大切な内容であるかを、言葉を尽くして明らかにしていくのです。

 

自己の本質を知れば何が真実かがわかってくる

人は地位だけが喜びでない。他人と比較するから不平も出る。地位や肩書なんかを無視して、エンジニアとしての自己開発、パイオニアとしての自己実現をめざしてはどうだろうか。自分の身についた宝は、技術開発力ではないか、取締役や常務などは、そうしたノウハウを持たない人々が、人間関係の複雑さの中でやっと手に入れた地位にすぎない。宝は自分の心の中にある。
人間の心かまえ
人は、目に見えるものを自分の宝だと信じてしまう傾向を持っている。「仏の智慧からすれば、目に見えるものなど、「小欲」の対象であるにすぎないのだ。「仏の無上慧を得て 而して乃ち此れ真の滅なり」なのである。あれも欲しいこれも欲しいと、一生懸命に自分のものにしようと努力して、それが手に入ってしまえば、あとは、特に利用するわけではない。自分の心の中に、無上の仏智が隠されているのに、それに気が付かずに、他人をののしり、他人を恨んで悪口を並べたてている。他人をねたむ心がある間は、とても「仏智」に近づくことはできない。
人間と生まれて、何が最も価値あるものがわかれば、その道にそって精進努力をしていけば十分なのです。ものにこだわり、地位にこだわり、金銭にこだわり続けた一生がどんなものか、まわりを見渡してみれば、どんなにみじめなものであるかがよくわかる。

生きる喜びの発見「衣珠の喩」

「衣珠の喩」の中のお話。 
孫に与える”記別”のやり方。私と同じ考えです。面白いですね。私は子供に学校の成績が上がらなくとも、「勉強しなさい」とは言ったことがありません。作者もこの所は同じです。未知の世界を人々に納得をさせるには、緻密な理論で語るよりも、神話や伝説や比喩のほうがわかりやすい事実を、釈尊をはじめ、古代インド人はよく心得ていました。
衣の裏の宝に気づかず、零落した男。
衣の裏に隠された受記を気が付かず零落したのは、釈迦が「誰でも仏になれる」という教えを忘れていたからと解釈します。
現代のサラリーマン社会でも、課長や部長ラインを羅漢果(羅漢の位置)と考え、そこへ達するまでは、一応の努力はするものの、そこに到達したが最後、できるだけ事故が無いようにと、保身にきゅうきゅうとするなら、これも”声聞根性”です。
「縁」の教えに目覚めた舎利子の歓喜
釈尊の教えに、疑心と反発の塊だった彼が、聴聞を重ねるうちに、かたくなな信念もだんだんほぐれていくのです。彼は、初めて聞いた因縁の法(因果律)が理解されるにつれて、自分の中にある仏となるべき因(可能性)に目覚めると、釈迦の説く「縁」(契機)の大切さが、面白いほど会得されてまいります。
舎利子が言う「真の阿羅漢」は、先の小乗の声聞が達する最高位ではなく、大乗阿羅漢です。前者は自分だけの解脱に満足して、そこに止まるのですが、後者は自利と共に、利他の解説をはかるところに大きな差があります。小乗の羅漢が願う涅槃(ねはん)とは、煩悩を滅することでした。大乗の涅槃とは、仏となることです。涅槃の原語は火を吹き消すこと・吹き消した状態の意味です。火とは煩悩の火のことです。煩悩の火をおさめて、知恵が完成するさとりの境地が涅槃です。身も心も安らぐ仏と成るのが大乗のいう涅槃です。釈尊の死を涅槃というのは、釈尊が生前と死後とを通じて、永遠に成仏されている事実を讃えた表現と考えられます。


 


 

 

生きる喜びの発見「衣珠の喩」

前回では、「化城の喩」でした。今回の「衣珠の喩」は、すべての人を成仏せしめんとする「釈尊の願いと誓い」です。特にこの比喩は、法華経の重大思想の一つである「受記」を、弟子たちが完全に理解した事実が、歓喜と感激をもって語られているところに、深い意味があります。
「悉有仏性(しつゆうぶっしょう。一切のものは仏になれる可能性を持つ)との大前提に基づいて「あなたは、いまは確かに凡夫だが、もともとあなたには、仏性があるのだからよい縁によって、必ずいつの日にかは成仏(人間性の完成)できる」と言う保証です。よって、授記を、一切の人々の成仏を果たさんとする「釈尊の願いと、誓い」ではないでしょうか。

 

法華経の教えの意味

今まで、法華経を勉強してきましたが、法華経の教えの意味は、「諸法実相」のことで、現実をよく見て人間形成の本質を説いたものです。喩話が多くそれを考えて実生活に生かすことではないでしょうか。喩話が多く記載されているのは、それを読んで考える時間を与えようとする釈尊の教えです。
次の話は、法華経の中で法華七喩と呼ばれる「五百弟子授記品」の一部で、「衣珠の喩」です。

宝所とは

いま私たちが仮に不幸であったら、それは何かの祟り(たたり)や運命のせいではなく、仏・菩薩の教えに出会えるご縁であり、自分の人生開発の機会を恵まれたのだと、気ずかされるでしょう。この化城喩品でキャラバンを組んで「宝所」を目指す分けですが、その途中の出来事を喩話(たとえばなし)をしているわけです。
現実的な利益が途中の“ドライブイン“で、逆協を生き抜く知恵と勇気に目覚める場所が「宝所」です。「宝所」は読んで字のごとし、宝の国・珍しい宝のある国で、心の安らぐ場・さとり所に譬えられています。宝所を仏教用語では涅槃(ねはん)と名づけています。
しかし今にして思えば、私たちの苦労は「私たちの過去の業の報いと受けとめつつ、他の苦労を慰め、助言もできる徳力の充電期の縁を深めるためであった」と気づかされもらいました。 切羽つまった祈りや願いを熱心に続ける現世的信仰が、そのまま、涅槃の宝所に近づけるようになるのです。宝所は幻のドライブインの先にあるのですから、現世利益の
ドライブインがあるおかげで、涅槃の宝所へ進む縁が実るのです。「化城喩品」は、さまざまな真実を示唆してくれるのです。長い化城喩品でしたが最後まで有難う御座いました。    次は「五百弟子受記品」の解説です。

 

日暮れて道遠しが意味するもの

「化城喩品」で幻の城を目指した欲の皮の突っ張った人々のキャラバン隊、現代人の喩え話です。「日暮れて道遠し」ですが、絶望感にひしがれて、途中で止めてはなりません。勇猛心を奮い起さねば嘘なのです。疲れた隊員を励ます導師の言葉がまたいい。「汝等よ、いざや、宝所は近きにあり」宝所が「さとり」を示すことは、すぐにわかるでしょう。
現世利益を求める信心は、あくまで第一段階、さて現代人を宝所に導くには、やはり現代的発想の「現世利益」という方便の「幻の城」が必要のようです。「現世利益」は、正しくは「この現在の世で受ける仏・菩薩の恵み」のことで、法華経では、「現世安穏 後生善処」(現世では安穏の生活をし、死後には善い世界に生まれる)と説きます。
ところが、現在の現世利益の通年は、この世で頂く仏・菩薩の恵みという本来の現世利益とニュアンスと異にして、いわば物質的なものを中心として考える、きわめて即物的な内容となっています。家内安全・商売繁盛・縁談成立・病気快癒から火難盗難一切の悪事を蒙らないように、受験合格はもちろん、いま買った宝くじの当選祈願など、数え上げたらきりがありません。しかし、それがいけないというのではありません。ただそれが適えられても、それは法華経の示す「宝所」とは掛け離れた、はかない”幻の城”にすぎない事実を胸中に覚えておいてほしいと願うのです。
現代発想の即物的現世利益を目標とするのは、自分中心の利益の満足だけを望むものばかりです。厳しく考えてみようではありませんか。自分だけの幸せを願う現代の現世利益は、小乗的信仰です。しかし、小乗的な現世利益をいたずらに低級視してはなりません。このキャラバンの隊長のように、小乗的現世利益が適えられても、それは”幻の城”だからそこで満足をしてはならないと、自分にも言い聞かせ、他のも教えることです。

 

人間界とは、耐えしのばねばならない世界

令和6年12月2日

娑婆(しゃば)は梵語でサハーの音写で、私たちが現に住んで生きている地球上のこの世界です。ここに住む人間は、内には無数の煩悩を抱いて苦しみ、外には風雨や寒暑の災害を受けてな苦しまなければなりません。そこで、娑婆が「忍土・忍界(耐えねばならない所)」と訳されます。私たちの住むこの世界は、確かに苦難に満ちているから、ここで生きていくには「忍耐」が欠かせません。
「忍」とは、ありのままを確認し、それに徹すること。  しかし、ただ苦しさや怒りやつらさを、じっと我慢するだけが「忍」ではありません。忍は「認」とと同じだとするのが大乗の思想で、忍を「認める作用」としています。「確認」というように、認めて確かに知り、その時点で必要な行動をするのが、認であり忍です。
忍は、自分の置かれている時点を確認することですから、他と比較しないときに生じる英知であるとも言えます。自分が病気の時、自分の健康時や他の達者な人と思い比べると、病気がさらに苦になります。他と比べずに、自分の病気を確認し徹すると、健康時には得られない生き方や考え方を病が教えてくれて、知らず知らず病から英知が生まれます。それを「娑婆即寂光土」(しゃばそくじゃっこうど)と言います。
「娑婆すなわち寂光土」とは、苦難に満ちたこの娑婆世界がそのまま、この上ない寂光の浄土になるのだということです。寂は、真理のしずかさを、光は仏の知恵が照らすのを指します。

忍土とは、忍ばなければ生きていけない場という考え方から、事実を確認することによって、きわめて楽しく生きていける世界という考え方に変わってゆけます。
言い換えると、辛抱しなければならないという受け身から、辛抱できるように人世の仕組みができている事実を、自分で発見する眼が開けてくる、ということになります。

 


 

 

しあわせを、他人と分かち合う願いと誓い

化状喩品の中の十二因縁は記憶されましたでしょうか?
今回は、お裾分けのお話です。常日頃私がは、楽しいことや、美味しいことは他人と分け合いましょうと。言っています。

上記の言葉は、化城喩品で「普回向文」(ふえこうぶん)と言って、法の最後に唱える文章です。
「願わくばこの功徳をもって、普(あまねく)一切に及ばし、我等と衆生(しゅじょう)とともに、仏道を成(じょう)ぜんことを。これが法です。
私は毎日仏前でやっています。
という、漢字二十文字の短詞です。しあわせを自分一人占めする個人的解脱を目標とする小乗的心根を捨てて、あの人にもこの人にもと、しあわせを配って、ともに人間の踏むべき道-----仏道を完成したいと、法華経を説く人たちは誓いと願い(誓願)をおこします。
この誓願はまた、法華経を読む現在の私たちの誓願でなければならないでしょう。
私は、世間でよく言われる、「おすそわけ」という日常語が好きです。
他から頂戴したものを自分だけで独占することなく、他にも分配することです。
「すそ」は、ものの端や末部分を持つことを「すそ」と言います。どのようにつまらなく、わずかなものと思われるものでもでも、他に分けるという心情が尊いのです。

 

人間の苦悩は、どのようにして生じるのか2

人間の年齢の計算方法も、母の胎内から社会へ出た日から数える西洋式と、出産前の母の胎内生存期を一年と算定する東洋的発想法がありますが、私は十二因縁の上から考えて、後者の東洋的年齢算定方法のほうが妥当だと思います。
かくて私たちは、この世に生まれ出たものの、まだ火の熱さも水の冷たさも知りません。火や水に触れて、はじめて寒熱の意味を知るのが「触」(そく)です。触によって暖冷や苦楽を覚える感覚を「受」(じゅ)と言います。感覚が働くようになると、好き嫌いの心も成長し、やがては好きなものに執着するようになります。それが「愛」です。一度、愛の情が起こると、それを自分の所有にしたいと思う、それが「取」(しゅ)です。
しかし、この欲望があるからこそ、私たちは生存し存在できる道理です。それを「有」(う)と言います。有は存在の意味です。私たちが、いま・ここに有るというのは「生」きているからです。しかし、生あるものは、次第に古びて、やがて滅んでしまわないものはありません。私たちは「老・死」する存在です。(病は老に含まれる)
以上のように、無明があるから行、行があるから識というように、前者が因となり縁を借りて果を生じます。さらにこの果が、今度は因となって同じようなコースで次の現象を生じます。このかかわり合いを順次追求して、十二項の系列とするのが十二因縁です。
人間の苦悩の因は、無明にあり、その結果が死苦となります。逆に「老・死」の苦の原因はどこにあるのか、それは生きているからです。

 

 


 

「縁起」とは何か

縁起とはなんであるか。無明の縁から(ぎょう)があり、行の縁から(しき)があり、識の縁から名色(みょうしき)があり、名色の縁から六処(ろくしょ)があり、六処の縁から(そく)があり、触の縁から(じゅ)があり、受の縁から(あい)があり、愛の縁から(しゅ)があり、取の縁から(う)があり、有の縁から(しょう)があり、生の縁から老死(ろうし)、愁悲苦憂悩(しゆうひくうのう)が生ず。このようにこの一切の苦蘊(くうん・苦のあつまり)の集起(しゅうき・集まり生起する)がある。
私たちの最大の苦悩は「死」でありましょう。なぜ人間は死ななければならないのか。十二因縁法によれば、それは「無明」(むみょう)に原因があるとされる。無明とは因縁や四諦(したい)の道理を正しく知らない、知っていてもこの道理を無視するところに生じる「迷いの根元」のことです。無明は性欲を生ずる縁となり、性欲本能の行為(行)を起こすため本能の奥に無明を設定するわけですが、ここに仏教思想の特徴があります。
無明と行とは、私たちが生まれる以前の過去の因です。この因が、男女の縁によって新しい命が母胎に宿り、人間の命を保つ根本的な要素をまず生むとされています。この根本的なものを「識」(しき)となずけます。この識が、人間の心身(名色)の発育を促し、五体と感覚や意識を生ずる六根の眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんい)が成長します。それが「六処」(ろくしょ・六人とも)で、母の胎内をまさに離れようとする状態です。


 

 

 

 

 

人間の苦悩は、どのようにして生じるのか

私たちが、普段、見聞きするすべての事柄や現象には、必ず原因があります。しかし、原因だけでは結果は生じません。結果が出るように、原因(因と訳す)に働きかけるのを「縁」といいます。また因には、可能性の語感があり、「縁」にも、因の可能性を助ける「契機」の意味が含まれています。たとえば、ここにブドウの種が一つあるとします。この種は花を咲かせ、ブドウの実を結実させる可能性(因)を持っていますが、机の上に置いたままでは、おいしい果物にはなれません。何かの契機が必要になります。すなわち地におろし、太陽の光や肥料などが欠かせません。それらの縁を得て、はじめてブドウの種がブドウになるのです。 このように、無数の因と縁とが、限りなくかかわりあって、さまざまな結果を生じるのを「因縁の法則」と言います。また結果は、因がいろいろの縁(契機)によって起伏しますから「縁起」とも言います。「十二因縁」は、私たち人間の苦しみや悩みがどのようにして生じるのか、そのかかわりあいを追求して十二項の系列にして説いた教えです。

仏教思想の根源

化城喩品でまた、仏教の根源のお話です。つまり「法は一味で、たとい十六に分かれても、法そのものには変わりない」十六とは、如来が十六人の子供たちが、父の如来に「法を説きたまえ」とせがんだ子供。
仏教の根源は「四諦・八正道・十二因縁」の三項目--------永遠の真理。
「四諦」は、苦諦・集諦・滅諦・道諦の四つの基本的な真理(諦)です。
「苦諦」は、現実に人生は、苦という以外に言いようのないという真理。
「集諦」は、その苦の原因は煩悩と執着にあたるとする真理。
「滅諦」は、「苦諦」は、不可抗力な存在ではなく必ずコントロールできるとする真理。
「道諦」は、苦悩をコントロールする実践方法についての真理です。
「八正道」は、「正道」というのは、因縁の真理(因果律・因果法)に合うのを
(聖)、       
 背くのを邪(悪)とする意味合いです。
「正見」は、正しい見解、因縁の
理に基づく見方、
「正思」は、正しい思索、
「正語」は、正しい言葉で語る。
「正業」は、正しい行為をする。
「正命」
は、正しい生活。

「正精進」は、正しい励み。
「正念」
は、正しく心に想念する。
「正定」は、正しく心身を安定する。という意味です。

以上の八正道は、相互に原因となり結果となって関連しあっているので、一つ一つの単独の実践に止まるものではありません。たとえば、正しく真理を見る「正見」の目が開くにつれて、自然にものごとを正しく思惟するようになります。すると、正しく語り、正しく行動するようになるでしょう。

 


 

 

仏法は久遠から

仏法は釈尊が生まれる前から存在した。「化城喩品」では法(真理)は、普編・久遠に存在します。釈尊はヒクションの「大通智勝如来(仏)」を紹介されます。すなわち「大通智勝如来」は、どの仏よりも先に。この世に初めて出現された最初の如来」である。釈尊はこの一言で、真理は刧初(こうしょ)からあったので、自分が初めてさとったのではない、と説かれるのです。
仏法という法は、「釈尊が創作されてものでもなければ、釈尊が開祖でもない」こと、釈尊は、この法をさとった一人である」こと、そして「私たちもまた、この法をさとる可能性を持っている」という事実を確認すればいいのです。
私たちが一生懸命に努力するなら、周囲の人だけではなく、私たちを取り囲む自然のたたずまいすべてが、私たちを励ましている事実を体験することができます。

 

鏡を見る
"鏡”を見ることで、もう一人の自分にめぐり合う

人類の文化のはじまりは,火と鏡の用い方と効用を知ったところにあるようですが、きわめて興味を覚えます。日本の神話の中の話で、天照大神(あまてらすおおみのかみ)が、お孫さんのニニギノミコトに鏡を与えて「鏡を見ること、われを見るが如くせよ」と語られたという日本建国の神話にあります。祖母や親に会いたくなったら鏡をご覧、との愛情を感じます。鏡を見るのは、祖先からの精神的系譜の上に自分を見つめることでもあるのです。鏡は単なる家具ではない。写る映像は偶像ではないでしょう。鏡は自分を知り、自分を修正するだけではなく、自分の中の、もう一人の自分のはたらきを教えてくれるのではありませんか。よって、鏡を見ることは、自分の容姿を正すとともに、もう一人の自分にめぐり合う大切な縁になるのです。
また、釈尊と同じく、私たちも仏になれる可能性(仏性)を持っているのですから、釈尊の悟りの象徴の仏像(画)を礼拝するのは、仏性という、自分の中のもう一人の自分を対象として拝むのです。いわば、自分の中に内在するもう一人のの自分を拝んで、自分を完成するための実践が、信心とも修行とも呼ばれるのです。おもえば、鏡台に向かって化粧を終え、自分を完成したと喜ぶのも”化城”です。本当の自分をもっと美しくしようと思い立つのは、真実を求めて、小さな現実の喜びから立ち上がることです。

鏡を見る
自分を見ること

ブッタとは真実に目覚め、真理をさとった人がブッタ(覚者)です。もともとは釈尊個人を讃える尊称ですが、大乗仏教の思想では、誰もがブッタになれる可能性(仏性)を持っているとの認識から、普通名詞的に覚者一般を指して言うようになりました。
法を中心に、法を「信」の対象とするのが大乗仏教の思想で、法華経もその名が示すように、法(仏法)の信心を離れて法華経はありません。
鏡を見ると、自分の顔が写って見えます。写って見えるのは自分の顔の表情だけではありません。人相というように、自分では見えない自分の心のたたずまいも、鏡に映しだされるのです。つまり、鏡を見る動作は、本当の意味で自分に出会うことであり、自分自身を知ることです。さらに鏡を見ることは、鏡に見られているのだと、鏡の見方を深めることもできるでしょう。鏡に映るのは間違いなく自分の容姿です。自分の容姿を「自分である」と確認するもう一人の自分とはどのようなものであるか、また、その「もう一人の自分」はどこにいるのかを学ぶのが、実は、仏道を学ぶことに他ならないのです。

古代インド人が考えた「永遠」の表現法
刧(こう)

 

「刧」とは日本語で会同すると「永遠」・「無限」の時間を「刧」という一つの単位として考えていたのが、古代インドの数の思想のように思えます。
何を基準にしたかは不明ですが、「一刧」を人間界の四十三億二千万年と算定しています。日本人なら「永遠・永久・無限」などと簡単に言い表します。しかし、古代インド人は、そうした抽象的表現では不満で、どこまでも数字で具体的に表さないと承知できないのです。
囲碁の世界も仏教思想にあるようです。「刧争い」といいます。碁盤の面のは、十九本の線が刻まれていますが、それによって十八の空間が存在します。そして、この十八は、人間存在の十八の構成要素(六根・六境・六蔵)の「十八界」あるいは「十八種の妄想(成仏を妨げる執念や執着)」を示すといいます。白・黒の碁石は、人間の善行・悪行が交互に行為される事実の象徴です。それらを総合すると「刧争い」の意味が一段とはっきりするでしょう。


 

絶えまなき向上心のすすめ
小成に甘んずることなく、より大きな目標に達するために

「三草二木の喩」につづく「化城の喩」は、衆生の功利的な信仰を、永遠の真理を求める大きな信心に導こうーーとの願いを示すもので、釈尊自身がキャラバンの隊長として、金儲けを目論むたくさんの隊員を連れて、旅に出ることから始まります。
その目指すところは、人間完成への道、すなわち仏道を歩むのに、行先は長いし、時には険しい路にも出会わなければならない。目的を達するため、よき教えを聞いて、よく困難に耐えるようにーーーというものです。これも喩話(たとえばなし)でキャラバン隊の人達は我々のことです。


 

 

10代遡ると何人のご先祖様がいるでしょう?

令和6年11月5日(火)曇り 友引

あなたは今、生かされていることを知っていますか。現状に生を受けて生きていることを実感してください。10代遡ると何人のご先祖様がいるか?ご存じですか?
それは、1024人です。これを知っていますか?  我々はこれだけのご先祖様のDNAを引き継いでいます。何代か前に、どんなご先祖様が居たのかも分かりません。ご先祖様が居なかったらこの世に存在しないのです。生きている事に感謝をして、ご先祖様にも感謝の気持ちを持ちましょう。

 

法華経の世界

「南無妙法蓮華経」の唱題に込められた真実とは

法華経の説く諸法実相の思想によれば、宇宙に存在する全てのものが、そのままさとりの当体を示している。すなわち「妙法」です。したがって、山に鳴く鳥の声も、野に咲く花も、みなさとりのことばーーー真言でないものはありません。ゆえに我々凡夫も「南無妙法蓮華経」と法華経の経題を唱えるなら、自然に仏のさとりの知恵と世を救う慈悲の徳とが、譲り与えられると教えます。
要は、諸法(もろもろの現象)を実相(真実の姿)と見えるように、私たちの心の眼が開かれると、この世に存在する差別の実体が、そのまま平等の価値を具足しているのだという事実に、はっきりと気づくことが出来ます。そして「三草二木」の比喩が、単なる比喩でなく、真実そのものの姿であるのに気が付くでありましょう。ーーーーー これで薬草喩品は閉じられています。

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