心を込めた”ありがとう”はさとりの言葉
法華経には「陀羅尼品」(だらにほん)というものがあります。が、法華経では「陀羅尼呪」と標示しています。「呪」(じゅ)と訳される梵語にマントラがあります。マントラは呪の他に「真言」と漢訳され、真言とは真実の言葉です。ここで言う真実は、仏教思想の「さとり」の意味として用います。
真言とは「さとりのことば」ということであり、絶対の真理そのものから発せられる言葉です。さとりのことばであるから、相対的・合理的角度では意味も分からず、ときには解釈も出来ない場合があるのは止むをえません。この意味で、陀羅尼は、無義語の内容を持ちます。しかし、私たちの言葉は意志を疎通するための言葉ですから、無義語であってはなりません。「ありがとう」という有義語(意味のある言葉)に、全身を投げ込んで、ありがとうの言葉と一体になって”ありがとう”と口をついで出た場合、その時初めて、自他が一つになった絶対の一言になるでしょう。この時の一言は、有義語でなく無義語です。人間の言葉であって、しかも相対を超えたさとりの言葉になったのです。だから、この”ありがとう"は真言であり、陀羅尼に他なりません。誰かの言葉に「言葉が通じないのが、畜生や地獄の世界。言葉を必要とするのが人間の社会。言葉が不要なのが極楽浄土」なかなか趣(おもむき)のある発言ではないでしょうか。 と記してあります。