看々臘月盡(かんかんろうげつじん)
命には終わりがある
テレビドラマでは毎日のように人が死んでいきます。ニュースでは殺人事件、新聞は訃報を伝えてくれます。そしてたまに身近な人の葬儀。死んでその人の一生が終わる。このことから目をそらさずに、「命に限りがあることを良く見ていなさい」と言う意味の禅語です。臘月とは12月(陰暦)のことで、一年が終わるのと命が尽きるのをかぶせています。一日一日、命は尽きていく。
看々臘月盡(かんかんろうげつじん)
命には終わりがある
テレビドラマでは毎日のように人が死んでいきます。ニュースでは殺人事件、新聞は訃報を伝えてくれます。そしてたまに身近な人の葬儀。死んでその人の一生が終わる。このことから目をそらさずに、「命に限りがあることを良く見ていなさい」と言う意味の禅語です。臘月とは12月(陰暦)のことで、一年が終わるのと命が尽きるのをかぶせています。一日一日、命は尽きていく。
落花流水を送る
もてなしの極意
花びらは、風に舞い散ると、清流がどこかへ連れて行ってくれます。
清流は、ただただ流れ、落ちてきた花びらを運んでくれます。
もてなされる人ともてなす人の関係に、こんな無心が欲しいところ。
どうだ美味しいだろうという押しつけと、誉められるための作為があっては興醒めです。もてなされる方が不遜では醜いし、謙遜しすぎてもつまらない。落花と流水の関係が理想です。
閑古錐(かんこすい)
鋭いだけでは
職人さんの道具は、持つ指の形にへこみが出来て黒光りした何とも味のあるもの。
これは世界共通しているかもしれません。
「閑古錐」はそんな道具。使い込んで使い込んで先が丸くなった「きり」の事です。ただ鋭いだけで攻めていた年月を経て、今は無駄な動きも一切必要なく、落ち着き、読み深く、しかし悟りの心境さえ忘れて、若い者の仕事ぶりを見て穏やかに微笑む老人に似ています。そんな先が丸くなった「きり」には迫力さえあって、尖っていなくても目的は充分に果たせそうです。
花は無心にして蝶を招く
蝶は無心にして花を尋ねる
はなはむしんにしてちょうをまねく・ちょうはむしんにしてはなをたずねる と読む。
無心でする仕事。これが一番自然で美しく、長続きして疲れず、世のためになり実も結びます。蝶は、「花粉運搬およびそれによる受精補助」で花畑業界に貢献しよう、と思っているわけではありません。花は「蜜を餌に花粉をただで運ばせよう・・・」などとは思っていません。人は、生まれた時に無心で、育つほどに無心が失われていくのかもしれません。だから生まれた時の無心をめざして修行します。
一以貫之(いつもってこれをつらぬく)
やわらかい心で、一貫して変わらず道を進むこと。
柔軟な心と謙虚な態度があってこそ、一つのことが貫けます。ゆずれること、ゆずれないことの選択は、やわらかい心で。
雲門の餅(うんもんのへい)
いい話と記憶
雲門禅師が、仏も超えたと評判の玄々微妙と言う人に会った来た次の日、小僧さんが話に興味津々に聞きました。「どんなお話でしたか?」すると禅師は「胡餅」のひとこと。「ありがたい話はその時食べた餅と一緒に吞み込んでしまったよ」と言うのです。あら、いじわる、と思いきや、もしかしたら、「そんな話を聞くより、お前には今やるべきことがあるだろう」と言いたかったので煙に巻いたのかも知れません。こうして出来た禅語が「雲門餅」です。
おふくろさんの味噌汁の味は、忘れていた優しい語り口を蘇えらせてくれます。
咄々々(とつとつとつ)
あら、まあ
驚きと感嘆が入り混じった時の声です。驚くこと、感動することは、心をやわらかくして若いエネルギーを増やします。千利休は、お茶会を開くたびに趣向をこらし、桜の花びらを散らせてみたり、路地のもみじひとつ、お客様の「まあつ」と驚く瞬間のために工夫したと言われています。小さな驚きで、お客様の心がほぐれます。感動して驚くことが日常にあふれたら毎日が楽しく新鮮です。そのためには、出会いとチャレンジが不可欠。
春水満四澤(しゅんすいしたくにみつ)
昨日は恐かったあの人も
春になって、雪解け水が沢を満たしていく。
冬は雪の姿、春は水となって、季節ごとの姿に執着なく地上に恵みをもたらします。まるで、厳格な当主からやさしい隠居となり、孫と遊ぶ好々爺のようです。
当主は一家を養う責任を一身に引き受け、収入の途切れることを許されず、世に敵の多いのを承知して子供たちに生業を教える。厳しくなるのはあたりまえです。
当主の愛情は冬の雪のよう。そして子供が修行を終えたころ、当主は世代交代の時期を悟ります。
今度は隠居になった身で、なりたての未熟な当主を支えるべく微笑みをたたえて、孫たちと戯れて雪解け水のように一家を優しさで潤していくのです。
光陰矢如 宇宙の中のあなたの一生
(こういんやのごとし)
光と陰とは、太陽と月のこと。プラネタリウムで一昼夜をぐるぐるっと早回ししたようなダイナミックな表現です。
矢を放ったごとく、めくるめく過ぎてゆく毎日。何万年たっても一日も後もどりすることはありません。ただ太陽は急ぐ様子もなく、なにくわぬ顔で輝いています。同じように月は音もたてずあわてず、美しい満ち欠けを見せてくれます。こんな天体のリズムに波乗りのように乗ってしまいましょう。自分の小さな考えの中で自転して、からまわりした時間を過ごしてしまわないように。一日一度は空を見上げて、天体のリズムを観じてみてください。決して、「急げ急げ」とは言っていないはず。
一切衆生を救う心を起こすべし
みんな仏に守られて生きているのだ。
この章で「法華経」の解説は終了です。長い間有難う御座いました。
真理を悟り、それを日常行じている普賢菩薩が、東方から、多くの菩薩たちと一緒に、娑婆世界にやってくる。一行の通る国々は、喜びにあふれ、蓮華の華を雨のように降らせて、歓迎する。娑婆世界へ着くと、霊鷲山の釈尊の所にやってきて、最高の礼を尽くしてお願いする。釈尊は、はっきりと答える。もしも、善男子・善女人が、四つの事を成就すれば、如来が亡くなった後でも、この「法華経」の真の功徳得ることが出来ます。
第一には、諸仏に護念せられること。
第二には、諸々の読本を植えること。
第三には、正定聚に入ること。
第四には、一切衆生を救う心を起こすこと。
四方を守れば人生は明るい。
第一には、諸々の仏に護念されるようになることです。自分は仏に護られているのだという絶対の信念をもつこと。
第二には、いろいろな徳がありますが、その徳の元を、自分の身に植えることです。悟りを得るための根本となる善を行う心を、植え育てていく事です。
第三には、正しい信仰をもつ人々の仲間に入ることです。
第四には、一切衆生救おうという心を起こすことです。自分だけ救われたらそれでよいのだと思っていては、小乗の段階です。大乗の心のならなくてはなりません。
どんな不幸のどん底にあっても、「自分たちは諸々の仏たちにしっかりと護られているのだ」と信じている人は、必ずはい上がって立派になる。人間は弱いものだ。弱いからこそ、信念をもたなくてはならない。相手を先に仏になれるよう手助けし、自分は後でいいという思想が、大乗仏教の基本あること知らなくてはならない。
以上で「法華経」の解説は終わりです。長いこと愛読を有難う御座いました。私も大変 勉強になりました。(^^)/
人は、信じられると悪い道に入ることはできなくなる
この章は要点だけにします。「法華経」を流布する事が記されています。
人は、信じてもらえれば、道をはずすことはない。
呪文をとなえる
陀羅尼品二十六は要点だけを記載いたします。
陀羅尼品二十六は、毘沙門天や持国天はバラモン教の神様です。彼らは「世尊、私もまた、陀羅尼神をもって、『法華経』の持つもの擁護(まもり)続けます。仏教以外の神々も法華経を守る。と言います。
人生は迷いの連続だ。ウマイ話、あぶない話、いろいろやってくるけれど、今やっている仕事以外にいい仕事はないと、思ってみることだ。悪い状況ばかりではない。必ず時が回って、いい風向きになってくる。いい風ばかり追いかけていては、いつまでたっても、追いつかない。いい風を呼び込むには、こちらの心構え大切なのだ。耐えることも人生の味を深くしてくれる。人間は弱いものだ。失うものが多い人ほど弱い者なのだ。外から見て、きわめて強い様に見えるが、その心の中は、不安と嫉妬で一杯なのである。誰でも迷いはある。神仏にすがりたくなる時がある。特に一人になった時には、弱気になってしまう。そんな時、『法華経』の信者として、一心に呪文をとなえれば、だんだんと強い心がよみがえってくる。生きる力を与えてくれる。と記載されています。
その3 大いなる誓願は海のように深い
救済を求める人の前に現れる
観世菩薩は、梵天、帝釈、大将軍、長者、居士、童女・・・・など、あらゆるものに身を現わす。そして感応して法を説く。衆生を度脱(すくう)こと限りがない。普門示現なのだ。
「大いなる誓い」というのが、四弘誓願だ。まさに、「利他の願」なのである。
衆生無辺誓願度 煩悩無数誓願度 法門無尽誓願学 仏道無上誓願成 この四つの誓願をかかげて、無明に苦しむ娑婆世界の衆生をすべて解脱させるというのが、観世音菩薩の願いなのである。「観世音浄聖は 苦悩・死厄に於いて 能く為に依怙と作れり 一切の功徳を具して 慈眼をもって衆生を視る 福聚の海無量なり 是の故に応(まさ)に頂礼すべし」なのである。一心に「法華経」にすがり、観世音菩薩の慈悲にすがりつけば、その一心を見て、やがてまともな人間に立ち戻ることができる。生まれながらの悪人はいない。悪に染まっていくのは、善人になろうとする精進の道が分からないからなのだ。
観世音菩薩は、『真観・清浄観・広大知恵観・悲願及び慈眼』をそなえている。真実を見とおす眼、清浄な眼をもち、そして宇宙の広大な智慧、人々の苦しみを除き、救ってやまない慈悲の心、をもっている。だから、「常にせん仰すべし」といわれるのだ。
その3 観世音菩薩の名の起こりは何か
娑婆世界は苦に満ちている。もし、苦しいことに出あって、どうにもならなくなった時、心の中から、「南無観世音菩薩、南無観世音菩薩・・・・」と一心に称えれば、観世音菩薩が現れて、その苦しみから救い上げてくれる。「その音声に観じて」すべての苦しみから救い上げてくれる。それで観世音という名がつけられたのである。一心に名をとなえることがこの世の苦しみから救ってもらえる力になるというのである。一心にとなえるということは、観世音菩薩の智慧を自分のものとすることだ。
この観世音菩薩の名をしつかり心の中に受持するものは、たとえ大火に入っても焼かれることはないでしょう。それはこの菩薩の威神力によるものです。あらゆる苦しみに会い、絶体絶命の時に、一心に観世音菩薩の名をとなえていけば、必ず解脱(のが)れることができるのである。 と記されています。
観世音菩薩(観音経)その2
観世音菩薩品の教えです。通称我々は「観音経」と呼んでいます。
人生は苦に満ちている。それは力の強いものが、貪欲な心で、人々のものを奪いとり、欲望を満たそうとするからだ。貪欲な心をおさめるには、観世音菩薩のような慈悲の心もって、あらゆる人々の苦しみを察して、その原因を取り除いてやることです。
人生、いくら貪欲に物を蓄えても、たかがしれている。それよりも争いをやめて、思いやりのある温かな心で、助け合いながら生きるのがどれほど楽しいかわからない。
「観世音菩薩品第二十五」は、観世音菩薩の神通力をたたえ、それを人生の目標として、「法華経」を自分のものとし、修行していく事が、人生の苦から脱出する最良の道であることを示している。
観世音菩薩について
観世音菩薩の誓願は海の如く深い
この章は、皆さんが知っている通常、観音菩薩についての章です。
人生で苦しい時に、何者か力のある神や仏にすがりたくなるものである。何にも頼らず、どんな苦境にあっても、常に泰然として我が道を行く人は少ない。困難災難にあって、身を苦しめ、どうすることも出来ないときに、観音妙智の力が人々の苦しみを救ってくれた例は数限りなくある。観世音菩薩は如来ではない。仏にいたる一歩手前のあることを見落としてはならない。衆生を救いとるのは如来(仏)であって、菩薩は人々と一緒に修行して如来へ到るまで精進していく人なのです。だから、救済を求めて神通力にすがりついても、それは仏として救っているのではない。菩薩として『一切の功徳を具して、慈眼をもって衆生を視る、福聚の海無量なり』と信じ、仏に少しでも近付いて行こうという毎日の修行が何よりも大切なのだ。
仏を供養し衆上を救済し続ける
妙音菩薩は三十四身に姿を現し、衆上の程度に応じて法を説いていく。また、仏の理想の世界から、現実の娑婆の世界へ訪ねてきた妙音菩薩大神力が、どうして身についたかを、釈尊が丁寧に説き聞かせているのである。
自分のことは後回しにして、仕事で儲けたお金を、交通事故で父親を亡くして困っている人々に用立ててあげている。とくに、働きながら勉強しようとしている学生たちには、奨学金を出している。そればかりではありませんよ。一度縁を結んだ学生の就職から結婚まで、あらゆる点で、親以上です。周りの人を助けていけば、自分の幸せにつながっていく。人生には、いろいろな苦労があるから、苦労がこびりついてしまう。これを洗い落とすには、どうしても「法華経」の力がいるのである。
自分を捨てていけば必ずすばらしい人生が訪れる
自分の身を捨てて、他人へ献身することは、なかなかできることではない。まして、この世の中は、自分をどうして守っていこうかということばかり考えて生きている人たちの集まりなのである。決して、やさしいことではない。しかし、自分だけが良ければ、それで幸せが来るのかと言えば、本当の幸せははやってこない。自分を捨てて、他人に献身することができれば、これが本当の幸せなのである。
人間としてこの世の生まれ、喜怒哀楽のうちに、七転八倒の毎日を送っている。その中にあって、自分の人生を捨てて献身していく事の出来る人ほど幸せなものはない。
自分の利益をはかる前に、相手の利益をはかる。自分の身を守る前に、相手の身を守る。自分を誇る前に、相手をたたえていく。こうした心の中に、「仏の智慧」が住んでいる。「仏の智慧」を自分の智慧として実践していけるならば、人生にとってこれほど安らかで充実したものはないのである。
努力が無ければどこにも安楽な場所はない
この項もまとめだけを期します。
今いるところが道場なのだと思って、耐えて修行する。そこに救いがあり、道があるのだ。家出してどこに行っても、今より安楽なところはないことを知ることだ。今いるところで修行するのだ。どこでなにしようと、すべて、今いるところが道場なのだと肚をすえてかかっていくことが何よりも大切なことだ。そうするうちに、今ここで努力していることに感謝する心が生まれてくる。今いるところが自分の人生の真ん中なのだとわかってくる。光が差し込んでくる。人生を自分の力で生きる覚悟が大切なのだ。
「如来神力品第二十一」は、釈尊や諸仏が神力を現し、真理は一つであることを強く印象づける章である。「法華経」の功徳と、娑婆世界もその神力によって、ほかの仏の国土と同じように光明に満ちあふれる不思議さが、くわしく語られる。娑婆世界に、南無釈迦牟尼仏という大合唱が起こって、一切を清浄にしていくのである。地から沸き起こった菩薩たちが、釈尊に対して、大歓喜の心で、「法華経」を未来永刧に守護し、布教していく事を誓うと、釈尊は、その眼前で、大神力を現した。その不可思議・神秘的な現象は、如来の慈悲と「法華経」の偉大さを表している。
常不軽菩薩品第二十
この項も要点のみを記載します。
この章には、常不軽(じょうふきょう)という菩薩が登場します。どんなに排斥されても、その人を「常に軽ずることなく」拝み続けた菩薩です。釈尊は、五種法師の素晴らしい功徳について説き、これらの法師をののしったり、悪口を言ったり、欠点をあげつらったりする人があれば、大きな罪の報いを必ず受けると述べ、正法・像法・末法の世に威音王如来(いをんのうにょらい)がどう表れたかをといてゆく。この常不軽菩薩は釈尊の事である。
人と人の関係は実に難しい。昨日までは、親の仇のようにののしっていたのに、今日は、うってかわって妥協の連続である。昨日までの悪口雑言はどうしたことなのだろうか。利害によって人は動く。平気で敵になったり味方になったりする。攻撃してき、その十倍もの勢いで叩きのめすのが、俗世の生き方だと信じている人が多い。相手を信じきるのが、どんなに心の平安につながっていくか、誰でも知っている。どれだけ良いかわからない。
悪口雑言を投げつけられても、「あなたも仏になれる」と唱えて、合掌していく心を作らなくてはならない。人生の苦悩は、こうして超えていけるのだ。
担当者:ライフアドバイザー
あかおぎ ひろし
人は誰も幸せになるために生まれてきたのです。
自分や家族のいろいろなお悩みの相談を受けています。
汝、悩むことなかれ。どんな人でも悩みの無い人は居ません。
早く心と気持ちを軽くして、前を向いて生きて行きましょう。
多くの方が心と気持ちを軽くして幸せになっています。
どんなことでもご一報ください、無料で相談させて頂いています。
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