信仰の力はどんな壁でも破る。

信仰の程度に応じ、心の功徳を十二の段階に分けて、釈尊は説く。
仏の寿命の永遠不滅を信じたならば、心の迷いは消えてなくなってしまう。人の一生は、生死の間を迷い続けて、確信できる生き方を手に入れぬまま、苦しみながら生きている。
信仰の力は、どんな壁でもぶち破り、無明の心を「仏の智慧」の法へ導くのである。
何度も繰り返しお話しますが、仏の教えは人間の生きる方法を示しているのです。
その中で一番普段の生活に関して法を説くのが「法華経」と思い、解説書を見ながらお知らせしているのです。この法華経の中身を解読したなら、人の争いは無くなると信じています。
私は、新教宗教に組みしていません。私のお寺さんは「臨済宗」です。

 

仏の知恵

釈尊の入滅は、大衆の心を「仏の智慧」に引き付ける方便にすぎないとわかった菩薩たちは、如来は、無量の寿命をもち、いつ、いかなる時でも、自分たちと一緒にいてくれるのだと信ずる事が出来た。菩薩たちは、数えることが出来ないほどの衆生が、そのことによって大きな大きな利益を得たと感じとっていた。
その大きな利益とは一体、何を意味するののだろうか。現世に財産をつかめるとか、今すぐ良い地位につけるとか、病気が治るとかという、現世利益の事を意味してはいない。「仏の智慧」は、物を得ることを目的としていない。あくまで、心の持ち方のよって、無明の闇から抜け出すことが出来るという利益なのである。如来の生命の永遠不滅を信じ、いつも自分の心に如来が居てくれると思えば、その心は光を明発するようになり、明るく、清らかになってくる。
人は心に念(おもう)ことがあると、やがてそのようになっていく。心の中に仏の光明を宿していけば、それが自然に、心身から発散されてくるのだ。  と記されています。

 

「仏の長遠」を信じて得る功徳

いよいよ分別功徳品十七に入りました。前品では釈尊の言葉を使って、さまざまな方便を使い説法する事が記されてありました。
この分別功徳品第十七に於いては、仏の寿命が永遠不滅であることを信ずる事によって、その功徳が、はかり知れないほど大きく、自分の人生に幸せをもたらしてくれることを、体系的に説く。心を清浄にして、何ものにもとらわれることなく、何ものも求めることなく、「法華経」そのものになりきっていく幸せを説くのである。

 

仏は常に自分と共にあるのだと信じて生きる

如来寿量品十六最終回

法華経では、「自ら身命を惜しまず 時に我及び衆僧 俱に霊鷲山に出ず」と説かれている。自分の身命を惜しむことなく、日夜、心配してくれている。仏の慈悲は実にありがたいものなのだ。それなのに。儲けるだけ儲けて、他人の繁栄を喜ばず、自分だけの幸せを求め、その金銭や地位によっているのだと思ってしまう人々が、あまりにも多くなりすぎている。周りの人々を不幸におとしいれてまで儲けるのは、よいことではない。老人をだまし、土地を奪い、それを売りとばして、現金をにぎり、姿をくらましてしまうような人々が、あちらこちらに出てきている。そんなことをしたら、永遠の命はおろか、明日の生命さえも断たれてしまう。人は誰でも、生命が続くことを望んでいる。死後もあの世へ渡って、極楽浄土で平安に永遠の生命を楽しみたいと思っている。そのために、儲けるだけ儲けて、豪邸を建てても、それは、むしろ逆効果なのである。
まわりの人々の幸せは、仏法を信じさせることだととらえ、そのために「自ら身命を惜しまず」に努力していくことが、永遠の生命を生きることになるのだと知らなくてはならない。

 

方便力をもって説法を工夫

我常に衆生の 道を行ぜざるを知って 度すべき所に随(したが)って 為に種々の法を説く
永遠に尽きることのない無量の生命力をもって、釈尊は苦しみの大海に沈んでいこうとする人々を救い上げつづける。いくら「仏の知恵」を説いても、なかなか理解できないのが衆生だ。衆生は、三毒におかされて、救いがたい。まさに煩悩のかたまりなのだ。どのようにすれば、三毒にどっぷりと首までつかってしまっている大衆の一人一人を、自分の方から進んで悟りの境地にむかわせることができるかを、考えつづけている。大衆は、そのあやまった生き方にきがつかない。それを、衆生自身の方から自覚させる工夫が大変なのだ。
釈尊は、因縁や譬喩や言辞をもって説く方法で、「度すべき所に随って」方便力をもって救いとってゆくのである。

人生の道しるべ

お経の事は、何度か書きましたが。葬式や年期でお寺さんで、お坊さんがよく唱えてくれます。私が、お経の解説をしているのは、お経とは「人の生き方」「人生の過ごし方」を説いた文章だからです。その中で一番難しくて分かり易く、人生の過ごし方が書いてあるのが「法華経」です。この法華経の正式名称は「南無妙法蓮華経」です。どうぞ皆さんお経は、葬儀・年期の時だけに上げる言葉ではないのです。NON BOOKの「法華経入門」松原 泰道著を手に入れて読んでください。

衆生に恋慕の心を起こさせる

釈尊から見れば、衆生は苦しみに大海に沈没してゆく。このまま放っておいては、みな、苦しい人生をいつまでたっても終わらせることはできない。
いつも釈尊が身近にいると思うと、そこに甘えが出てくる。怠け者も生じてくる。そこで釈尊は、方便として入滅し、衆生が、釈尊を恋慕したときに姿を現して『法華経』を説くように工夫しているのである。 衆生とは我々人々です。

衆上を導くために如来は滅する

釈尊は、大衆が、種々の善根お養おうとしないことや、ねがうことが異なるところばかり目立ち、過去にとらわれつづけ、過去について追憶し、あれやこれやと利害得失について思いわずらっているのを、ありのままに見ている。こうした人々に善根を生じさせようとして、『若干(そこばく)の因縁・譬喩・言辞を以(も)って種々の法を説く。所作の仏事未だかつて暫くも廃せず』と釈尊は語る。
仏はなぜ滅するのか。無明なる大衆は、如来は常にいて滅することはないと知ると、『橋恣(きょうし)を起こして厭怠(えんだい)を懐き』いつでも法は聞けると思いがちなので、如来は入滅し、めったに逢うことはできないと説いて、仏道に導くよう方便を使っているのである。如来の寿命は尽きることはない。

て、

 

己身を示し、あるいは他身を示して

「如来は如実に三界の相を知見す。生死の若しは退、若しは出あることなく、亦在世及び滅度の者なし。実に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、三界の三界を見るが如くならず」釈尊は、方便を自由に使って、相手の機根に合わせて法を説いてきた。
如来が三界を見る時、実にありのままを見る。無明の人々は、自分の利害得失から三界を見るから、ありのままを見ることはできない。自分の都合のよいように、色眼鏡をかけてみる。三界に色がつくから、如実にとらえることはできなくなる。「仏の知恵」に曇りは一切ないのである。と言っている。

 

仏の寿命は無限無料なのだ

釈迦は、仏の寿命は無限無量なのだと言っています。釈迦の生命は、「実に成仏してよりこの方」久遠なること譬えようもないのである。その寿命は無限無量なのである。
これは、久遠本仏の宣言である。

自分の誕生日です。

2月6日は私の誕生日でした。満84歳になりました。
皆さんがそれぞれお祝いの食べ物を持参してくれて感謝に堪えません。感謝・感謝です。
皆でコーヒーを飲んでケーキを食べて、お祝いしてくれました。感謝他ありません。

2025-02-05

小中学校の不登校学童

今日のNHKのニュースで発表されました。小中学校で不登校の子供が34万人も居ることをビックリしました。
私の所へ不登校の相談者が数人みえました。政府や学校等も対策に追われているようです?
私の意見としては、各学校の教育方針(文科省の指示)が原因だと思います、家に来る数人の方々もそう言っています。相談者の中には今現在、立派に自分の道を歩んでいる人も居ます。なぜ不登校や引きこもりになるのでしょうか?ご両親も真剣に考えてみてやって下さい。決して無理やり学校へ行くように言ったり、引きこもりを無理やり直そうと思ってはいけません。子供に寄り添って良く話を聞いてやって下さい。どうにもならないときは、どうぞご相談ください。子供の相談も受けたわまっています。どうぞ安心してご相談下さい。

仏の寿命は永遠不滅なり

仏の本体について説いている。

釈尊は、自分の眼力をもって、信仰の根である信根・精進根・念根・定根・慧根の五根を見抜いて、それぞれに応じながら法を説き続け、すべて方便をもって衆生を教化し、仏道に導いたのである。「如来寿量品十六」は、仏とは何かをここで明らかにする。久遠本仏の宣言である。

「法華経」こそ宝
人生の一流を目指して「法華経」の心を実践する

安楽行品は「法華経」の重要さを特に強調しているのです。
「法華経」は、人々のこの世の迷いを根本から払ってくれる大光明なのである。
「日々安易に過ごすのではなく、心を安らかに、そして寛容の心をもてるよう、自らを鍛えることだ。他人の心がわからないようでは、一流人とはいえない。自分の気持ちをわかってもらおうとする前に、相手の立場を理解しようとする心を持つことだ。それができるかどうかで、一流か三流かが決まる。そこに人間の品があらわれる。
人生を生きていくうえで、何に一つ指針らしいものもなく、無日的にその日その日を過ごしてゆくのも良いし、人生で成就すべき目標をもち、それを「願」として、一心不乱にその実現のために精進するのも良い。人生はその人のもので、どちらがより優れているかと言われると、軍配はあげにくいものだ。どうせ生きるなら、人生に一つの大きな目標を持つべきではないだろうか。その方が努力をしやすくなるし、精進努力が結集できる。
「一切衆生に於いて大悲の想を起こし、諸の如来に於いて慈父の想を起こし、諸の菩薩に於いて大師の想を起」して一日一日を力強く生きていけるなら、その人生は平安・安楽で充実したものになるのである。以上が安楽行品の言わんとするところです。


 

大慈大悲の心をもって

誓願安楽行を実行していく菩薩たちに釈尊は、力を込めて説く。
後の末世の法滅せん時に於いて、法華経を受持するあらん者は、在家・出家の人の中に於いて大慈の心を生じ、菩薩に非る人の中に於いて大慈の心を生じて、是の念を作すべし。
釈尊が入滅して、悪世になっていくにつれて、菩薩たちの努力はいっそう厳しいものが要求されてくるにちがいない。周りの中が「法華経」を攻撃しようとする邪道の人になるからだ。

書きたいと思っています。

このところ、暇を見つけては本を読んでいます。今は、”ホッとする論語” 〝やさしいお経”を読んでいます。時折思い出したように本を読みます。なぜか、仏教の本が多いように思います。また何か書かして頂きます。

幸せになる方法

今自分が幸せでない、と思っている人。自分が幸せでないのはどうしてでしょう?
それは、他人を幸せにするように自分が行動していないからです。相手の幸せを考えて行動すれば必自分が幸せになれます。「諸法実相」です。周りをよく見て判断し、自分の行動を良い方へ向けるのです。「善行善果」という言葉の通りです。人には良くしましょう。

 

人の幸せ

定かではないですが。トルストイの言葉の中で「人がすべきことは、人を幸せにすることである」という言葉があるそうです。これは、2500年以上前から続く日本の仏教からの言葉にあります。
また、今日の新聞に「地域の助け合いが命を救う」・「人と人のつながりが希薄化」「人間関係を再構築」などと書かれていました。
人類は必ず幸せになれるのです。それは「諸行実相」です。自分の置かれた状況を、いろいろな方面からみて、現実の状況を見極めることです。おのずと答えは出てくるはずです。人は他人の幸せを祈れば必ず自分に帰ってくるのです。それを充てにしてすることはいけませんが、他人の幸せのために働く、これが幸せをもたらすことです。トルストイの時代からそれは言われているのですね。
今回の能登の被害でも、皆の能登を思う気持ちが無ければどうにもなりません。私も近ければ飛んでゆきたいです。

 

 



 

 

 

他人の悪口・経典の批判はするな

人は他人を責めるとき、どうしてこんなに厳しくできるのか、首をかしげてしまう。そんなことに情熱をついやすよりも、そのエネルギーを、自分の人格をみがく方に振り向けたらどうなのだろうか。議論をわざわざ吹きかけて、相手を叩きのめそうとする人も、少なくない。論争して勝ったところで、相手の恨みをかうだけではないか。
そんな時、小乗の法をもって答えず、大乗の法をもって答え、解説して「仏の知恵」で相手を仏の道へ導いていくように工夫するのです。

 

忍辱・柔和・善順の心で進め

人は、自分の思うようにならないと、すぐに怒り出し、少しでも地位や財産ができると、おごりたかぶるものだ。そうした心を制し、いつも柔和で善順で、落ち着いていて、どんなときでも、平常心でいる。すべてありのままに見て、慈悲の心を持って平等を貫いていく。こうゆう心をもって「法華経」を説いていけば、こんな素晴らしいことはないのだ。

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担当者:ライフアドバイザー
あかおぎ ひろし

人は誰も幸せになるために生まれてきたのです。
自分や家族のいろいろなお悩みの相談を受けています。
汝、悩むことなかれ。どんな人でも悩みの無い人は居ません。
早く心と気持ちを軽くして、前を向いて生きて行きましょう。
多くの方が心と気持ちを軽くして幸せになっています。
どんなことでもご一報ください、無料で相談させて頂いています。