無生死に気づくこと

令和5年9月28日(木)先負 猛暑日。五黄土星中宮日 つちのとうし

禅語を呼んでいるといろいろな教えに行きあたります。今回の禅語は、お釈迦様の教えです。お釈迦様は、「私たちは誰もが仏であり、悟りの心と仏心を持っている。しかし、執着する心があるから、本来持っている悟りの世界が見えない。」と説かれています。そして、迷いや執着などの心が生じなければ、私たちは、常識的な分別を超え、何事にも囚われることなく、自由自在な働きを謳歌できるということです。
私たちは、日常の生活の中でどうしても様々な物事に左右されてしまいます。しかし、私という我(が)や、執着の心を捨てた時に、生きるや死ぬという生死を離れた世界が現れ、自分自身というものに気付くことが出来るのだと思います。

隠元禅師

中国明代の禅僧・黄檗宗の開祖

隠元禅師が説かれた教えに「脚下無私皆浄土」(脚下無私なれば、皆じょうど)という言葉があります。これは ”囚われのない私であるならば、心のやすらぎ、そのものである” と説いています。
隠元禅師と居士のやり取りです。
居士「慈悲の心を持って、生死無き悟りの意思をお示しください」
禅師「足元に私などというものが無くなれば、みんな浄土の世界なのです」
足元とは、自分自身のことです。その自分自身に「私」という囚われや執着が無くなれば、それは浄土の世界、すなわち、やすらぎの世界なのです」と答えました。

禅語です。寺で貰った小冊子に

令和5年9月23日(土)仏滅

彼岸の中日です。墓参りに行って来ました。社務所で線香を買った時に小冊子秋の彼岸号を頂きました。帰宅して紐解いてみると記されていました。「秋彼岸」の題で彼岸とは、此岸(しがん・現実の迷いの世界)と川を隔てた向こう岸のことであり、”悟りの世界”を意味します。
私たちは人生で思うようにいかない事にぶつかると、身勝手に自分の都合の良いように判断し、その結果迷い苦しみながら生きています。
その迷いの中に隠されている、ものごとをありのままに受け入れて分け隔てなく他者に手を差し伸べることができる「仏心」を、私たちは皆生まれながらに具えていると、禅では説きます。

春秋に1週間ずつの彼岸期間中は、仏法を聞き行いを正しくするために設けられています。禅の教えを学び、自ら彼岸に至る目的を成就する一助にし、またこの時期に先祖代々の霊魂をお祭りして、ご先祖様も彼岸に至らしめるとする良き縁と致しましょう。  以上のように記されていました。

 

達磨安心(だるまあんしん)

不安のモト

令和5年9月20日(水)先勝 晴れ時々雷雨 四緑木星中宮日 かのとみ 彼岸入り

今日は彼岸の入りです。急に雨が降って来たりしました。
達磨安心と言う禅語です。安心しきった幸せそうな赤ちゃんの寝顔。そんな心境で過ごしたい。でも、あなたのその顔、なんですか。いくつもの不安を抱えて、口はへの字に、眉間に縦じわ。何がそんなに不安ですか?
不安を亡くす方法を達磨大師に聞いたら、不安の種を持って来いと言われた。探したがなかった。
不安がないならそれこそ安心じゃないか、という話がこの言葉の由来です。
今でも同じです。不安を消す方法は、不安の元を探すことから始まります。あなたの不安さがし。
コツは不安の本当のモトのモトまで突進んでいくこと。不安の種の一歩手前で止まってしまうと、不安が不安を呼んでしまう。こう記されています。貴方も不安をだまされたと思ってこの通り解消してみませんか。(^^)/

 

竹箆竹箆にあらず

読み方(しっぺいはしっぺいにあらず) 意味 姿かたちにとらわれず

令和5年9月15日(金)友引 天気不安定 九紫火星中宮日 ひのえね

禅の修行に使われる長い竹のへらのようなものをしっぺいと言います。この竹箆を題材にして修行僧に質問したのがこの禅語です。竹箆には違いないけれど、竹箆として使わなければただの竹の棒である。
ではこれはただの竹かと言えばそうではない。現在の形はまさに竹箆の形でああるから竹箆である。
ではこれは何か?般若心経を思い出してください。色即是空。空即是色。形あるものは、即ち空である。空は、即ち形である。竹箆は、即ち何物でもない。何物でもないそれは竹箆の形である。
「姿かたちにとらわれず、物事の本質を見る目を忘れるな」という教訓です。

2023-08-08

あなたが夏休み中にして欲しい事。

令和5年8月8日(火)先負 曇りのち晴れ

夏休み最中ですが、皆さん子供さんとどう対処してますか?いろいろ大変ですね。(-_-;)
親としてしてもらいたい事は、それはしっかり子供さんを抱きしめてあげて下さい。抱きしめる事によって子供さんが変わりますよ。子供は真直ぐ素直に育てることが大切ですよ。又、昔から子供は親の背中を見て育つと言います。貴方の背中は大丈夫ですか?

古今無二路(ここんにろなし)

賢者の行く道

やり方は違っても賢者たちの行く道は、今も昔も一つだと禅語は言っています。今、目の前にある自分の責任を気を散らさずに黙々とはたたして行くと言う道。親が偉いから、環境が良かったから、親戚が有力者だから賢者になるわけではありません。
ノーベル賞もピュリッツアー賞も古今無二路の延長線上にあるようです。

調子に乗るな。

勢い使い尽くすべからず

誰でも勢いに乗っている時は、調子に乗って突っ走る傾向があります。そんな絶好調の時こそ細心の注意をし、行動を慎むようにと言う禅語です。
勢いに乗っている時は、力まかせに普段の用心深さも忘れ、人の助言も聞かなくなっているものです。アドレナリンが発揮され、自分が特別な人間のように思えてしまう時。誰でも何度となく経験するもの。歳を重ねるごとにそれが永遠に続くものではない事を、皆学んでいきます。
歴史をふりかえれば、勢いに陰りがさすのは敵側の要素でななく、きまって自分が原因。怪我や病気もそのうちです。

惑わされず、勘違いせず。

令和5年6月23日(金)小雨

「鏡分金殿燭」(かがみは きんでんのしょくをわかつ)・・惑わされず 勘違いせず という意味。「鏡」は自分が映すものに惑わされない。
どんなに豪華な宮殿の中に居ても、絢爛に輝く蝋燭に囲まれていても、「鏡」は自分を勘違いすることなく、無心でその蝋燭を映し出します。輝いているのは自分でなく、蝋燭であると言う事を知っているのです。そんな「鏡」のようであれ、という言葉です。                      人によって対応を変える人は、はたから見ても嫌なものです。「鏡」の本文はありのままを映し出すこと。「鏡」はただ無心で態度を変えず、映った相手を自分と見間違えることもありません。


 

自灯明(じとうみょう)

依頼心を捨てなさい。

禅語に自灯明という言葉があります。我々は、頼りにする人がいなくなっても生きてゆかねばなりません。今まで頼りにしていた光がなくなったら、どうやって生きていけばいいのでしょう。そんな時禅語では「自分が灯明」だと言う事に気付きなさい。と言います。これと対句なって「法灯明」という言葉があります。「仏の教えがともしび」仏の光は足元を照らす光になり、迷い悩む闇で道を照らしてくれます。「法灯明」を頼りに進むうち、自分自身が「自灯明」となっていくのです。
あなたが進む道を照らしてくれるのは、消えることなくあなたの前に現れている羅針盤としての仏の教え。そして、その光をまとったあなた自身なのです。

騎牛求牛 うしにのってうしをもとむ)

求めるものは、あなたの手にある

誰ですか? 牛に乗っていながら牛に乗りたいと言う人は。
誰ですか? 給料が良くて、社員のレベルが高くて、自分の能力を正しく評価してくれて、将来有望な会社に転職したいと捜している人は・・・・。それは今勤めている会社じゃないですか?
誰ですか? 美人に生まれたかったといつも嘆いている人は・・・・。自分に素肌と笑顔が美しい事に気付いていませんね。
求めるものは、外ではなく内にある。自分の牛に、もう一度愛情を注ぐと思い出せます。良い牛だったこと、良い牛に乘っていた事。
自分の仕事に迷っている方はもう一度考えてみる事がありそうですね。(>_<)

雲収山岳青(くもおさまってさんがくあおし)

「自分がはっきり見えてくる」という意味です。禅語は「あなたはあなたらしく、そのままでいい」と教えてくれます。「求めるものはすでにその手の中にある」という。
おかしい。そんな簡単なわけはない。私は私のままでいいと言ったって、「私」は本来どうゆう人間なのでしょう。そこがハッキリしなければ「私らしく」がぼやけます。
私が本当に求めているのは何だったのかしら、これまで雲がかかって求めるものがなんだか見えない。
雲が切れて青々とした山が現れるように「私」の本来の姿をクッキリ見たいものです。

自分を見抜くより

今回より「自分を見抜く」として記載します。
不識(ふしき)知る必要ももない。という言葉です。
そんなことどうだっていいじゃないか。昔、中国で、皇帝が達磨大師に質問をしました。「私の前に居るお前は誰か」大師は一言いいました、「知らない」。それが「不識」です。知らなくていい。知ってどうする。知る必要もない。そんなレベルを超えたところに「不識」があります。
米国では履歴書に性別や年齢を書くこともありません。もちろん写真も貼りません。

花枝自短長(違いを認めて)

かしおのずからたんちょう

同じ樹でありながら花の枝には短い物も長いものもある。それぞれの枝に違いがあるからこそ全体の姿が美しく整い、バランスがとれる。この自然の摂理は、人がそれぞれに個性を持って生きていいことを教えてくれます。地球の全員が同じだったらどんなに恐ろしくつまらないか、歴史が証明しています。
これで「美しく生きる」禅語は終了です。次回からは「自分を見抜く」禅語の紹介です。

看々臘月盡(かんかんろうげつじん)

「命には終わりがある」
死んでその人の一生が終わる。自分の命も容赦なく尽きていくのだから、その事から目をそらさずに「命に限りがあることをよく見ていなさい」という意味の禅語です。
臘月とは12月(陰暦)の事で、1年が終わるのと命が尽きるのをかぶせています。一日一日命は尽きていく。
 

もてなしの極意  落花流水を送る

花びらは、風に舞い散ると、清流がどこかへ連れて行ってくれます。
清流は、ただただながれ、落ちてきた花びらを運んでいきます。
花は流されるために散ったのではなく、川は花を運ぶために流れているのではありません。どちらも相手から頼まれたわけではなく、どちらも恩をきせるわけではありません。その双方ともが自分の仕事を無心で全うしているからこそ、この図は美しいという禅語です。
もてなされる人と、もてなす人の関係に、こんな無心が欲しい所です。どうだ美味しいだろうという押しつけと、褒められるための作為があっては興醒めです。落花流水の関係が理想です。

美しく生きる。「閑古錐」(かんこすい) 

職人さんの道具は、持つ指の形に凹みが出来て黒光りした何とも味のあるものです。道具といえども様々な素材を相手に仕事をして来た長い経験に裏付けされたもの、でその道具を見ただけで歴史の重みを感じることが出来ます。「閑古錐」とはそんな道具。使い込んで使い込んで先が丸くなった「きり」の事です。昔は鋭かったであろう「きり」。
ただ鋭いだけで攻めていた年月を経て、今は無駄な動きも一切必要なく、落ち着き、読み深く、しかし悟りの心境さえ忘れて、若い者の仕事ぶりを見て穏やかに微笑む老人に似ています。そんな先が丸くなった「きり」には迫力さえあって、尖っていなくても目的は充分に果たせそうです。

美しく生きる。予想を超えた展開。

一夜落花雨 満城流水香(いちやらっかのあめ まんじょうりゅうすいかんばし) 

美しい花を、叩いて落としてしまうほど降った昨夜の雨。一夜明けたらすっかり晴れて、雨が潤した街は花の香りで満ちていた・・・・・・・。
雨は花を散らすつもりで降ったのではなかったのに、「なぜあんなに美しい花を落としてしまったのよ」と雨を責めた私。そして明朝、雨は川の水となって花の香りを運びます。落ちてなお街中を香りで満たす花・・。人を責めるのはやめよう。起きた事をなげくのもやめよう。次に何が起きるのか分からないし、何のために起きている事なのか予想もつかない。人は、花は、雨は、ただ無心に自分の役割を果たすだけ。あの雨が教えてくれました。

美しく生きる。

一以貫之(いつ もってこれをつらぬく)  やわらかい心で

令和5年3月26日(日)赤口 雨

やわらかい心で、一貫して変わらず道を進むこと。と言う事です。
楽な方楽な方へ、目移りしてそのたびに都合のいいようにポリシーを変え、浮気ばかりしていると、物事の本質は何時まで経ってもつかめません。しかし、単に頑固に硬直して一本道を行けと言っている分けではないようです。柔軟な心と謙虚な態度があってこそ、一つの事が貫けます。ゆずれること、譲れない事の選択は、やわらかい心でしましょう。ということですね。


 

魚行きて水濁る。
わたしの歩いたあとが道になる

禅語にも「起きた事は隠せない」という言葉があります。魚が泳げば水が濁るというのです。
黙っていればバレないと思っていても、何か証拠が残っているものです。たとへば「顔に書いてある」。悪い事をしたばかりではありません。良い事をした時も同じです。口の出して言わなくともどこかに跡が残っています。あなたが歩んだ道は、見る人が見ればちゃんとわかる。行動したのに何にもならなかったと思っても、いずれその行動があなたを助けるために帰ってくる瞬間があります。ああ、あの時の苦労がこんな形で実を結ぶとは。行動は必ず痕跡となる。だから迷わず行動してください。いえ、迷ったら動かずにいて下さい。

お問合せ・ご相談 

お電話でのお問合せ・ご相談はこちら
090-8846-4589

担当者:ライフアドバイザー
あかおぎ ひろし

人は誰も幸せになるために生まれてきたのです。
自分や家族のいろいろなお悩みの相談を受けています。
汝、悩むことなかれ。どんな人でも悩みの無い人は居ません。
早く心と気持ちを軽くして、前を向いて生きて行きましょう。
多くの方が心と気持ちを軽くして幸せになっています。
どんなことでもご一報ください、無料で相談させて頂いています。