2025-02-05

小中学校の不登校学童

今日のNHKのニュースで発表されました。小中学校で不登校の子供が34万人も居ることをビックリしました。
私の所へ不登校の相談者が数人みえました。政府や学校等も対策に追われているようです?
私の意見としては、各学校の教育方針(文科省の指示)が原因だと思います、家に来る数人の方々もそう言っています。相談者の中には今現在、立派に自分の道を歩んでいる人も居ます。なぜ不登校や引きこもりになるのでしょうか?ご両親も真剣に考えてみてやって下さい。決して無理やり学校へ行くように言ったり、引きこもりを無理やり直そうと思ってはいけません。子供に寄り添って良く話を聞いてやって下さい。どうにもならないときは、どうぞご相談ください。子供の相談も受けたわまっています。どうぞ安心してご相談下さい。

仏の寿命は永遠不滅なり

仏の本体について説いている。

釈尊は、自分の眼力をもって、信仰の根である信根・精進根・念根・定根・慧根の五根を見抜いて、それぞれに応じながら法を説き続け、すべて方便をもって衆生を教化し、仏道に導いたのである。「如来寿量品十六」は、仏とは何かをここで明らかにする。久遠本仏の宣言である。

「法華経」こそ宝
人生の一流を目指して「法華経」の心を実践する

安楽行品は「法華経」の重要さを特に強調しているのです。
「法華経」は、人々のこの世の迷いを根本から払ってくれる大光明なのである。
「日々安易に過ごすのではなく、心を安らかに、そして寛容の心をもてるよう、自らを鍛えることだ。他人の心がわからないようでは、一流人とはいえない。自分の気持ちをわかってもらおうとする前に、相手の立場を理解しようとする心を持つことだ。それができるかどうかで、一流か三流かが決まる。そこに人間の品があらわれる。
人生を生きていくうえで、何に一つ指針らしいものもなく、無日的にその日その日を過ごしてゆくのも良いし、人生で成就すべき目標をもち、それを「願」として、一心不乱にその実現のために精進するのも良い。人生はその人のもので、どちらがより優れているかと言われると、軍配はあげにくいものだ。どうせ生きるなら、人生に一つの大きな目標を持つべきではないだろうか。その方が努力をしやすくなるし、精進努力が結集できる。
「一切衆生に於いて大悲の想を起こし、諸の如来に於いて慈父の想を起こし、諸の菩薩に於いて大師の想を起」して一日一日を力強く生きていけるなら、その人生は平安・安楽で充実したものになるのである。以上が安楽行品の言わんとするところです。


 

大慈大悲の心をもって

誓願安楽行を実行していく菩薩たちに釈尊は、力を込めて説く。
後の末世の法滅せん時に於いて、法華経を受持するあらん者は、在家・出家の人の中に於いて大慈の心を生じ、菩薩に非る人の中に於いて大慈の心を生じて、是の念を作すべし。
釈尊が入滅して、悪世になっていくにつれて、菩薩たちの努力はいっそう厳しいものが要求されてくるにちがいない。周りの中が「法華経」を攻撃しようとする邪道の人になるからだ。

書きたいと思っています。

このところ、暇を見つけては本を読んでいます。今は、”ホッとする論語” 〝やさしいお経”を読んでいます。時折思い出したように本を読みます。なぜか、仏教の本が多いように思います。また何か書かして頂きます。

幸せになる方法

今自分が幸せでない、と思っている人。自分が幸せでないのはどうしてでしょう?
それは、他人を幸せにするように自分が行動していないからです。相手の幸せを考えて行動すれば必自分が幸せになれます。「諸法実相」です。周りをよく見て判断し、自分の行動を良い方へ向けるのです。「善行善果」という言葉の通りです。人には良くしましょう。

 

人の幸せ

定かではないですが。トルストイの言葉の中で「人がすべきことは、人を幸せにすることである」という言葉があるそうです。これは、2500年以上前から続く日本の仏教からの言葉にあります。
また、今日の新聞に「地域の助け合いが命を救う」・「人と人のつながりが希薄化」「人間関係を再構築」などと書かれていました。
人類は必ず幸せになれるのです。それは「諸行実相」です。自分の置かれた状況を、いろいろな方面からみて、現実の状況を見極めることです。おのずと答えは出てくるはずです。人は他人の幸せを祈れば必ず自分に帰ってくるのです。それを充てにしてすることはいけませんが、他人の幸せのために働く、これが幸せをもたらすことです。トルストイの時代からそれは言われているのですね。
今回の能登の被害でも、皆の能登を思う気持ちが無ければどうにもなりません。私も近ければ飛んでゆきたいです。

 

 



 

 

 

他人の悪口・経典の批判はするな

人は他人を責めるとき、どうしてこんなに厳しくできるのか、首をかしげてしまう。そんなことに情熱をついやすよりも、そのエネルギーを、自分の人格をみがく方に振り向けたらどうなのだろうか。議論をわざわざ吹きかけて、相手を叩きのめそうとする人も、少なくない。論争して勝ったところで、相手の恨みをかうだけではないか。
そんな時、小乗の法をもって答えず、大乗の法をもって答え、解説して「仏の知恵」で相手を仏の道へ導いていくように工夫するのです。

 

忍辱・柔和・善順の心で進め

人は、自分の思うようにならないと、すぐに怒り出し、少しでも地位や財産ができると、おごりたかぶるものだ。そうした心を制し、いつも柔和で善順で、落ち着いていて、どんなときでも、平常心でいる。すべてありのままに見て、慈悲の心を持って平等を貫いていく。こうゆう心をもって「法華経」を説いていけば、こんな素晴らしいことはないのだ。

「法華経」こそ衆生の心を清浄にする

今日から、法華7喩のうち「安楽行品」です。釈尊は、安らかな心で自ら楽(ねが)って進むために「四法」を説くのが、この章です。
第一に、いつも忍辱の心を持ち、柔和善順の態度で、あわてふためくことなく、一切平等で、慈悲の行いをしていくことです。自分の行いが立派なのだと思いあがることなく、地位や勢力のある人に、何かを求めようとして近づいたり、何でも反対する一言居士になれ親しんではなりません。
第二に、他人のあやまちや経典のあら捜しをしたり、他人の長所や短所を批判したり、好き嫌いの心を起こしてはなりません。
第三に、嫉妬の心を持ったり、他人に何かを期待しておべっかを使ったり、自分の心を嘆いてはなりません。
第四に、すべての人々を「法華経」に帰依させようという誓願を起こし、これを身命を捨てても実行していくことです。
四つの安楽行を説いた釈尊は、「法華経」がどんなにすぐれた教えであるかを、「髻中の明珠」(けちゅうのみょうしゅ)の喩話をもって説明する。
「安楽行品第十四」は、四つの安楽行を説き、「髻中の明珠の譬え」をもって「法華経」の教えが、どれほど大切な内容であるかを、言葉を尽くして明らかにしていくのです。

 

自己の本質を知れば何が真実かがわかってくる

人は地位だけが喜びでない。他人と比較するから不平も出る。地位や肩書なんかを無視して、エンジニアとしての自己開発、パイオニアとしての自己実現をめざしてはどうだろうか。自分の身についた宝は、技術開発力ではないか、取締役や常務などは、そうしたノウハウを持たない人々が、人間関係の複雑さの中でやっと手に入れた地位にすぎない。宝は自分の心の中にある。
人間の心かまえ
人は、目に見えるものを自分の宝だと信じてしまう傾向を持っている。「仏の智慧からすれば、目に見えるものなど、「小欲」の対象であるにすぎないのだ。「仏の無上慧を得て 而して乃ち此れ真の滅なり」なのである。あれも欲しいこれも欲しいと、一生懸命に自分のものにしようと努力して、それが手に入ってしまえば、あとは、特に利用するわけではない。自分の心の中に、無上の仏智が隠されているのに、それに気が付かずに、他人をののしり、他人を恨んで悪口を並べたてている。他人をねたむ心がある間は、とても「仏智」に近づくことはできない。
人間と生まれて、何が最も価値あるものがわかれば、その道にそって精進努力をしていけば十分なのです。ものにこだわり、地位にこだわり、金銭にこだわり続けた一生がどんなものか、まわりを見渡してみれば、どんなにみじめなものであるかがよくわかる。

生きる喜びの発見「衣珠の喩」

「衣珠の喩」の中のお話。 
孫に与える”記別”のやり方。私と同じ考えです。面白いですね。私は子供に学校の成績が上がらなくとも、「勉強しなさい」とは言ったことがありません。作者もこの所は同じです。未知の世界を人々に納得をさせるには、緻密な理論で語るよりも、神話や伝説や比喩のほうがわかりやすい事実を、釈尊をはじめ、古代インド人はよく心得ていました。
衣の裏の宝に気づかず、零落した男。
衣の裏に隠された受記を気が付かず零落したのは、釈迦が「誰でも仏になれる」という教えを忘れていたからと解釈します。
現代のサラリーマン社会でも、課長や部長ラインを羅漢果(羅漢の位置)と考え、そこへ達するまでは、一応の努力はするものの、そこに到達したが最後、できるだけ事故が無いようにと、保身にきゅうきゅうとするなら、これも”声聞根性”です。
「縁」の教えに目覚めた舎利子の歓喜
釈尊の教えに、疑心と反発の塊だった彼が、聴聞を重ねるうちに、かたくなな信念もだんだんほぐれていくのです。彼は、初めて聞いた因縁の法(因果律)が理解されるにつれて、自分の中にある仏となるべき因(可能性)に目覚めると、釈迦の説く「縁」(契機)の大切さが、面白いほど会得されてまいります。
舎利子が言う「真の阿羅漢」は、先の小乗の声聞が達する最高位ではなく、大乗阿羅漢です。前者は自分だけの解脱に満足して、そこに止まるのですが、後者は自利と共に、利他の解説をはかるところに大きな差があります。小乗の羅漢が願う涅槃(ねはん)とは、煩悩を滅することでした。大乗の涅槃とは、仏となることです。涅槃の原語は火を吹き消すこと・吹き消した状態の意味です。火とは煩悩の火のことです。煩悩の火をおさめて、知恵が完成するさとりの境地が涅槃です。身も心も安らぐ仏と成るのが大乗のいう涅槃です。釈尊の死を涅槃というのは、釈尊が生前と死後とを通じて、永遠に成仏されている事実を讃えた表現と考えられます。


 


 

 

生きる喜びの発見「衣珠の喩」

前回では、「化城の喩」でした。今回の「衣珠の喩」は、すべての人を成仏せしめんとする「釈尊の願いと誓い」です。特にこの比喩は、法華経の重大思想の一つである「受記」を、弟子たちが完全に理解した事実が、歓喜と感激をもって語られているところに、深い意味があります。
「悉有仏性(しつゆうぶっしょう。一切のものは仏になれる可能性を持つ)との大前提に基づいて「あなたは、いまは確かに凡夫だが、もともとあなたには、仏性があるのだからよい縁によって、必ずいつの日にかは成仏(人間性の完成)できる」と言う保証です。よって、授記を、一切の人々の成仏を果たさんとする「釈尊の願いと、誓い」ではないでしょうか。

 

法華経の教えの意味

今まで、法華経を勉強してきましたが、法華経の教えの意味は、「諸法実相」のことで、現実をよく見て人間形成の本質を説いたものです。喩話が多くそれを考えて実生活に生かすことではないでしょうか。喩話が多く記載されているのは、それを読んで考える時間を与えようとする釈尊の教えです。
次の話は、法華経の中で法華七喩と呼ばれる「五百弟子授記品」の一部で、「衣珠の喩」です。

宝所とは

いま私たちが仮に不幸であったら、それは何かの祟り(たたり)や運命のせいではなく、仏・菩薩の教えに出会えるご縁であり、自分の人生開発の機会を恵まれたのだと、気ずかされるでしょう。この化城喩品でキャラバンを組んで「宝所」を目指す分けですが、その途中の出来事を喩話(たとえばなし)をしているわけです。
現実的な利益が途中の“ドライブイン“で、逆協を生き抜く知恵と勇気に目覚める場所が「宝所」です。「宝所」は読んで字のごとし、宝の国・珍しい宝のある国で、心の安らぐ場・さとり所に譬えられています。宝所を仏教用語では涅槃(ねはん)と名づけています。
しかし今にして思えば、私たちの苦労は「私たちの過去の業の報いと受けとめつつ、他の苦労を慰め、助言もできる徳力の充電期の縁を深めるためであった」と気づかされもらいました。 切羽つまった祈りや願いを熱心に続ける現世的信仰が、そのまま、涅槃の宝所に近づけるようになるのです。宝所は幻のドライブインの先にあるのですから、現世利益の
ドライブインがあるおかげで、涅槃の宝所へ進む縁が実るのです。「化城喩品」は、さまざまな真実を示唆してくれるのです。長い化城喩品でしたが最後まで有難う御座いました。    次は「五百弟子受記品」の解説です。

 

日暮れて道遠しが意味するもの

「化城喩品」で幻の城を目指した欲の皮の突っ張った人々のキャラバン隊、現代人の喩え話です。「日暮れて道遠し」ですが、絶望感にひしがれて、途中で止めてはなりません。勇猛心を奮い起さねば嘘なのです。疲れた隊員を励ます導師の言葉がまたいい。「汝等よ、いざや、宝所は近きにあり」宝所が「さとり」を示すことは、すぐにわかるでしょう。
現世利益を求める信心は、あくまで第一段階、さて現代人を宝所に導くには、やはり現代的発想の「現世利益」という方便の「幻の城」が必要のようです。「現世利益」は、正しくは「この現在の世で受ける仏・菩薩の恵み」のことで、法華経では、「現世安穏 後生善処」(現世では安穏の生活をし、死後には善い世界に生まれる)と説きます。
ところが、現在の現世利益の通年は、この世で頂く仏・菩薩の恵みという本来の現世利益とニュアンスと異にして、いわば物質的なものを中心として考える、きわめて即物的な内容となっています。家内安全・商売繁盛・縁談成立・病気快癒から火難盗難一切の悪事を蒙らないように、受験合格はもちろん、いま買った宝くじの当選祈願など、数え上げたらきりがありません。しかし、それがいけないというのではありません。ただそれが適えられても、それは法華経の示す「宝所」とは掛け離れた、はかない”幻の城”にすぎない事実を胸中に覚えておいてほしいと願うのです。
現代発想の即物的現世利益を目標とするのは、自分中心の利益の満足だけを望むものばかりです。厳しく考えてみようではありませんか。自分だけの幸せを願う現代の現世利益は、小乗的信仰です。しかし、小乗的な現世利益をいたずらに低級視してはなりません。このキャラバンの隊長のように、小乗的現世利益が適えられても、それは”幻の城”だからそこで満足をしてはならないと、自分にも言い聞かせ、他のも教えることです。

 

人間界とは、耐えしのばねばならない世界

令和6年12月2日

娑婆(しゃば)は梵語でサハーの音写で、私たちが現に住んで生きている地球上のこの世界です。ここに住む人間は、内には無数の煩悩を抱いて苦しみ、外には風雨や寒暑の災害を受けてな苦しまなければなりません。そこで、娑婆が「忍土・忍界(耐えねばならない所)」と訳されます。私たちの住むこの世界は、確かに苦難に満ちているから、ここで生きていくには「忍耐」が欠かせません。
「忍」とは、ありのままを確認し、それに徹すること。  しかし、ただ苦しさや怒りやつらさを、じっと我慢するだけが「忍」ではありません。忍は「認」とと同じだとするのが大乗の思想で、忍を「認める作用」としています。「確認」というように、認めて確かに知り、その時点で必要な行動をするのが、認であり忍です。
忍は、自分の置かれている時点を確認することですから、他と比較しないときに生じる英知であるとも言えます。自分が病気の時、自分の健康時や他の達者な人と思い比べると、病気がさらに苦になります。他と比べずに、自分の病気を確認し徹すると、健康時には得られない生き方や考え方を病が教えてくれて、知らず知らず病から英知が生まれます。それを「娑婆即寂光土」(しゃばそくじゃっこうど)と言います。
「娑婆すなわち寂光土」とは、苦難に満ちたこの娑婆世界がそのまま、この上ない寂光の浄土になるのだということです。寂は、真理のしずかさを、光は仏の知恵が照らすのを指します。

忍土とは、忍ばなければ生きていけない場という考え方から、事実を確認することによって、きわめて楽しく生きていける世界という考え方に変わってゆけます。
言い換えると、辛抱しなければならないという受け身から、辛抱できるように人世の仕組みができている事実を、自分で発見する眼が開けてくる、ということになります。

 


 

 

しあわせを、他人と分かち合う願いと誓い

化状喩品の中の十二因縁は記憶されましたでしょうか?
今回は、お裾分けのお話です。常日頃私がは、楽しいことや、美味しいことは他人と分け合いましょうと。言っています。

上記の言葉は、化城喩品で「普回向文」(ふえこうぶん)と言って、法の最後に唱える文章です。
「願わくばこの功徳をもって、普(あまねく)一切に及ばし、我等と衆生(しゅじょう)とともに、仏道を成(じょう)ぜんことを。これが法です。
私は毎日仏前でやっています。
という、漢字二十文字の短詞です。しあわせを自分一人占めする個人的解脱を目標とする小乗的心根を捨てて、あの人にもこの人にもと、しあわせを配って、ともに人間の踏むべき道-----仏道を完成したいと、法華経を説く人たちは誓いと願い(誓願)をおこします。
この誓願はまた、法華経を読む現在の私たちの誓願でなければならないでしょう。
私は、世間でよく言われる、「おすそわけ」という日常語が好きです。
他から頂戴したものを自分だけで独占することなく、他にも分配することです。
「すそ」は、ものの端や末部分を持つことを「すそ」と言います。どのようにつまらなく、わずかなものと思われるものでもでも、他に分けるという心情が尊いのです。

 

人間の苦悩は、どのようにして生じるのか2

人間の年齢の計算方法も、母の胎内から社会へ出た日から数える西洋式と、出産前の母の胎内生存期を一年と算定する東洋的発想法がありますが、私は十二因縁の上から考えて、後者の東洋的年齢算定方法のほうが妥当だと思います。
かくて私たちは、この世に生まれ出たものの、まだ火の熱さも水の冷たさも知りません。火や水に触れて、はじめて寒熱の意味を知るのが「触」(そく)です。触によって暖冷や苦楽を覚える感覚を「受」(じゅ)と言います。感覚が働くようになると、好き嫌いの心も成長し、やがては好きなものに執着するようになります。それが「愛」です。一度、愛の情が起こると、それを自分の所有にしたいと思う、それが「取」(しゅ)です。
しかし、この欲望があるからこそ、私たちは生存し存在できる道理です。それを「有」(う)と言います。有は存在の意味です。私たちが、いま・ここに有るというのは「生」きているからです。しかし、生あるものは、次第に古びて、やがて滅んでしまわないものはありません。私たちは「老・死」する存在です。(病は老に含まれる)
以上のように、無明があるから行、行があるから識というように、前者が因となり縁を借りて果を生じます。さらにこの果が、今度は因となって同じようなコースで次の現象を生じます。このかかわり合いを順次追求して、十二項の系列とするのが十二因縁です。
人間の苦悩の因は、無明にあり、その結果が死苦となります。逆に「老・死」の苦の原因はどこにあるのか、それは生きているからです。

 

 


 

「縁起」とは何か

縁起とはなんであるか。無明の縁から(ぎょう)があり、行の縁から(しき)があり、識の縁から名色(みょうしき)があり、名色の縁から六処(ろくしょ)があり、六処の縁から(そく)があり、触の縁から(じゅ)があり、受の縁から(あい)があり、愛の縁から(しゅ)があり、取の縁から(う)があり、有の縁から(しょう)があり、生の縁から老死(ろうし)、愁悲苦憂悩(しゆうひくうのう)が生ず。このようにこの一切の苦蘊(くうん・苦のあつまり)の集起(しゅうき・集まり生起する)がある。
私たちの最大の苦悩は「死」でありましょう。なぜ人間は死ななければならないのか。十二因縁法によれば、それは「無明」(むみょう)に原因があるとされる。無明とは因縁や四諦(したい)の道理を正しく知らない、知っていてもこの道理を無視するところに生じる「迷いの根元」のことです。無明は性欲を生ずる縁となり、性欲本能の行為(行)を起こすため本能の奥に無明を設定するわけですが、ここに仏教思想の特徴があります。
無明と行とは、私たちが生まれる以前の過去の因です。この因が、男女の縁によって新しい命が母胎に宿り、人間の命を保つ根本的な要素をまず生むとされています。この根本的なものを「識」(しき)となずけます。この識が、人間の心身(名色)の発育を促し、五体と感覚や意識を生ずる六根の眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんい)が成長します。それが「六処」(ろくしょ・六人とも)で、母の胎内をまさに離れようとする状態です。


 

 

 

 

 

お問合せ・ご相談 

お電話でのお問合せ・ご相談はこちら
090-8846-4589

担当者:ライフアドバイザー
あかおぎ ひろし

人は誰も幸せになるために生まれてきたのです。
自分や家族のいろいろなお悩みの相談を受けています。
汝、悩むことなかれ。どんな人でも悩みの無い人は居ません。
早く心と気持ちを軽くして、前を向いて生きて行きましょう。
多くの方が心と気持ちを軽くして幸せになっています。
どんなことでもご一報ください、無料で相談させて頂いています。