文豪とか巨匠、名優などと言われる人はいろいろな言葉を残しています。

今日は、今回読んだ本の中にあった文豪、吉川英治の言葉を紹介します。

われ以外のもの、すべてがわが師素晴らしい言葉ですね。

こんな心境になりたいものです。

前回に引き続き「無」「空」の内訳を教えています。

「空」とは実体のないことです。

  花はくれない 柳はみどり

という言葉がありますが、だから花は美しく、柳は新鮮に映る。はいいのですが、

仮に、くれないの花のほうが他の色の花よりはるかに美しい、柳の木は新鮮ですが、枯葉をつけている他の木々はきたない、という評価になると。人間の価値判断が 加わってくることになります。(ここが大切なのです)

悟りの状態に到達したものは、この世のあらゆる存在や現象に対して、そのような

判断はしない。

“すべての物をあるがままに見ることが出来るようになるのです。これはすべての

物に対する執着心とか所有欲といったものがなくなるので、あそこに木があり

ここに川があるという受け止め方をするだけなのです。

あるがままに見る。

眼からうろこがとれた境地には並大抵の努力では到達できませんが、だから、一歩

でも二歩でも現実の生活の中で近づく努力をしてみよう、と考えることが大切なわけ

です。

一人の人間を見るとき、男性か女性か、老人か若者か。美しいか醜いか、といった

ものを超えることが出来たら・・・・・。一度試してはいかがでしょうか。

あるがままに見る 簡単そうで難しいことですね。

*「無智亦無得 以無所得故」 
           (人間はもともと得るものが無いのだから、智も得もない)

人間は誰でも生まれたときは裸です。持ち物も何もない。人間は“本来無一物の存在です。

ところが裸で生まれてきた人間も成長するに従い、必要な生活必需品、すなわち、最低の衣・食・住が与えられる。また自分の力で手に入れることによって、いつの間にか、「僕の物」「私の物」といった我執が生まれ、「他人の物」と区別するようになる。

しかし、よく考えてみると、いかにも自分の力によって得ることが出来たように見える知識や教養・学問といったものさえも、すべて他人によって与えられたものばかりであります。

社会の中で生きている以上、互いに助けられたり助けたり、という関係で毎日を過ごすことになるのだから、“自分だけの力で得ることが出来たものなんか何一つないのです。

ただ単に“縁によって与えられたものを一時的に所有させてもらっているだけなのです。

こう考えれば、自分の獲得した知恵や物であったと信じていたものも、結局一時的な借り物に過ぎなかった、という事が理解出来るのではないでしょうか。

したがって、本来無一物であるわたくしという人間に、“私の智慧(智)、“私の物(得)などと言えるものは何一つなかったのだという事です。

第七節つづき

*「無苦集滅道」 四つの真理すらも“空である。

迷いの世界には、四苦八苦というような、様々な苦しみが満ちています。その苦しみを断ち、悟りへと導く方法を説いたものが、“四諦とよばれる四つの真理、お経の中に出てくる「苦集滅道」です。

なぜこの世が“苦であるか?それは、渇愛とよぶべき、人間の執着心があるからです。
それを
“集とよぶ。

では、その苦の原因を滅さない限り、いつまでたっても苦しみはなくならないはずです。そこで、苦の原因である渇愛を滅ぼし尽くそうというのが“滅です。そして、どうしたら
人間の持っている執着心を無くすことができるのだろうか?

それを説いたものが
“道です。
“道には全部で八つの方法があります
。“八正道( はっしょうどう)とよばれています。

  苦の原因を滅ぼすための八種の実践方法です。

 1) 自己中心の見方や、一方的に偏った見方をしないで正しく真実を見ること。

     (正見)(しょうけん)

 2) 自分本位の考え方をせず、大きい立場から、真理に照らし合わせて考えなさい   と言うこと(正思または正思惟)(しょうし・しょうしゆい)

 3) 正しい真理・法則に従い真実の言葉をかたる(正語)(しょうご)

 4) 正しい真理・法則に従い行為を行う(正業)(しょうごう)

 5) 正しい職業、正しい収入で暮らしを立てること。(正命)(しょうみょう)

 6) 正しい使命・目的に対して、正しく励み、努力し、怠ったり、脇道へそれたりしな   い。 (正精進)(しょうしょうじん)

 7) 正しい教えのみ、真理、法則を見、強く思うこと。(正念)(しょうねん)

 8) 心を常に正しく置き、周囲の影響や環境の変化によって動揺することが無いよ   うにする。(正定)(しょうじょう)

  以上の八つです。


八正道の言おうとするところは、人間の行為のすべてを、それが身体での行為であれ、口で行う行為であれ、さらには心で行う行為であれ、正しくせよ、ということです。

正しくさえすれば、自然に執着心は消滅し、この世の苦しみはなくなり、やがて悟りの境地に到達できる、というのです。結局のところ、この世を苦しみと感じる事さえも、自分自身がまだまだ執着心を持って、苦と楽とを差別している、ということに気が付く必要があるでしょう。人間の苦の原因の根本は「執着心」と言えるのではないでしょうか。

苦しさを かたる言葉に 安堵あり。

聞く耳を 持たない人に 悩みあり。

子ができた 知らせをもらう 喜びよ。

感謝です 感謝です すべてに感謝する気持ち。

釣れても釣り 釣れなくとも釣り。

この前、何かで見かけたのでメモしておいたものです・

知人の夫婦のご主人が六年の闘病生活の末73歳で亡くなられました。

奥様にお会いしましたが、寂しさが募りますが6年間の病院通いは大変でした。しかし、反面ホッとしましたと言ってました。

回復は無理ですと言われての6年間は大変だったと察します。自分に残された人生を有意義に過ごすことにします。と言っていました。

誰もこの世に生を受けたからには遅かれ早かれやがて死を迎えます。生老病死といいますが、死は悔いを残します。

人生悔いを残さないように日々の生活を有意義に過ごしたいものですね。

私も77歳を迎え、何時何があってもおかしくない日々です。少しでも悔いのない人生を送りたいと思います。

第七節 つづき

*輪廻転生の考え方とは?

 輪廻とは、過去世から現在世、そして未来世へと生死を繰返すことですが、それは迷いを断ち切って悟りの世界へ到達しない限り、つまり仏陀にならない限り永遠につづくのです。

したがって、十二縁起の第十二に「老死」とあるのは、さらに次の迷いの世界へ転生することを意味しているのです。三世にわたる輪廻転生の原因と結果を十二の鎖の輪によってえてみると。

老化してやがて死ぬのが人間の定めですが、それは第十一の“生があったからで、すなわち生まれからかこそ人間は老い、死んでゆくのです。それではなぜ生まれたのか?第八の自らの欲する対象に対する愛着心(愛)と、第九のそれらを自分のものにしようとする執着心(取)と、第十の生存したいという欲望(有)との三つが原因となっているからです。

では、未来世に生まれる原因は何か?母親の胎内に初めて一個の生命として宿る第三識、やがて母胎の中で心身が発育してゆくという色、そして母胎の中の六つの感覚器官が徐々に完備してくる段階の第五の六入、生まれた後に外界の様々な対象にふれてゆく第六の触、それらの対象に対して苦楽を識別するようになる第七の受、といった段階を通るからです。

それではなぜ識が生ずるのか?第二の、宿りたいという願いである行があるからであり、その原因が、第一の無知すなわち無明という迷いの根本なのです、ということになります。

したがって、われわれ人間が、迷いの世界に輪廻しなければならない根本原因こそが、真実の悟りに対する無知である、ということになります。

そこでこの無明を断ち切らない限り、迷いの世界を超えて悟りの世界へと到達することは不可能なのです。ということが仏教における十二縁起という教義が説かれているわけです。

自分が無知であることにすら気づいていないような凡人が、相対的差別を超えた悟りに到達することなど、とうてい無理なことなのかもしれません。

第七節 つづき  

十二縁起(因縁)について

*「十二縁起」 十二縁起は無明に始まり老死に終わる。

一)無明     :無知であること。

二)(ぎょう)  :宿りたいという願い。

三)(しき)   :母親の胎内に初めて一個の生命として宿る。

四)名色(みょうしき)  :心身が発育していく。

五)六入(ろくにゅう)  :六つの感覚器官が徐々に完備してくる。

六)(そく)    :生まれた後に外界の様々な対象に触れる。

七)(じゅ)    :対象に対して苦楽を識別するようになる。

八)        :自分の欲する対象への愛着心。

九)(しゅ)    :自分のものにしようとする執着心。

十)(う)      :生存したいという欲望。

十一)(しょう)  :生をうける、生まれる。

十二)老死      :年老いて死んでいく。

以上が十二縁起です。

一〜二は、過去に於ける二つの原因です。

三〜七は、現世に於ける五つの結果です。

八〜十は、未来世に対する現在の三つの原因です。

十一〜十二は、未来世の二つの結果です。

これを“三世両重因果と言います。

この十二縁起は人間の一生を物語っているのではないかと私は理解しています。

般若心経に学ぶ (第七)

無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道  
  
(むむみょう   やくむむみょうじん     ないしむろうし       やくむろうしじん      むくしゅうめつどう          

   無知亦無得 以無所得故
  
 むちやくむとく        いむしょとくこ)

(現代語訳) 始まりも終わりもない、すべてない。

さらに、無知もないし無知の尽きることもない。ということから老も死もなく、老と死が

尽きることもない。ということになり、苦しみも、その原因も、それをなくすことも、そして、その方法もない。もともと得るものが無いのだから、智も得もないことになる。

*「無無明 亦無無明尽」 無明とは世の中の真理を知らぬことを意味します。

お経の中に出てくる「無明」という言葉は“明るく無いつまり無知とか愚かなことを意味している。

人間の持っている煩悩を大きく分類すると、貪欲(むさぼり)、瞋恚(怒り)、愚痴(お

ろかさ)、の三つになります。無明とは無知のことですから、愚痴につながります。

知恵がなく正しい判断を下せないことを無明と言いますが、実は、この愚かさこそが、人間が迷いに世界に次から次へと生まれ変わる原因であるとする説があります。

これが十二縁起です。

では、何に対して〝無明〟なのでしょう?般若の智慧に対して、です。つまり、世の中の真理を知らず、正しい判断を下せないことを無明と言っているのです。

「無無明」すなわち無明なく、「無無明尽」すなわち無明の尽きることもない。と否定しているのです。すべては「空」なのだから、もともと何も存在していないのです

仏教からすると、現在の個の存在は、過去における業の結果であり、さらに、未来に何ものかとして生まれる原因である。という。

「自業自得」という言葉がありますが、これを分析すると、善因善果、悪業悪果ということになり、良いタネを蒔けばよい結果となってあらわれる。悪いタネを蒔けば悪い結果となってあらわれる。ということになります。

現代人がこの自業自得という言葉を用いる場合には、どうも悪い結果になったときのみを意味しているようですが、

“いつも良い心掛けでいるから、こんなに良いことがあるんだ

“よく言うことを聞いているから、ご褒美が貰えたんだというようことも自業自得なのです。

自業自得は、この世の中における原因と結果だけではないのです。過去世に於ける原因が結果として現世に表れ、現世で積み重ねている様々な原因が、未来世に於いて結果をもたらすのです。

自分の過去世における行為の結果が現在に続いているという事ですが、現世で私達が積み重ねている行為が来世につながってゆくというのです。

つづき

この世はすべて空であり無である(般若心経の究極の教え)

六つの感覚器官である六根、それらの対象である六境、それらを受け止めようとする意志や認識としての六識を合計すると全部で十八となる。それらを仏教では十八界とよんでいます。

また仏教には、十界と呼ばれる世界観もあります。これは世界を、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天という、六つの輪廻する迷いの世界と、声聞・縁覚・菩薩・仏という、四つの世界の合計であるとする見方です。十界は、客観的な立場から見た一種の仏教的世界観と言ってよいでしょう。それに対して十八界は主観的な立場から見た世界観と言えるでしょう。

人間は、自分の眼の届く範囲の中に存在するものは、それが人であろうが物であろうが、あるいは現象であろうが、こちらに見ようとする意志がありさえすれば見る事ができる。

しかし、それ以外は、いくらこちら側に見ようとする意志があっても見えないのだから、「有る」とは言えないことになります。

過去において見たことがあるものや、見た人から知識として教えられたものについては、記憶や知識として残っているはずですから、これらは存在する、と言ってよいでしょう。

見たことも、聴いたことも、匂いを嗅いだことも、味わったことも、触ったこともないものは、知識として教えられていない限り、本当はあるにも関わらず、主観的には無いに等しいでしょう。

十界にしても、いかにも客観的な存在のように説かれていますが、この十八界と照らし合わせてみると、やはり主観的な認識と気が付くでしょう。

しかし、このように分類することこそが人間の煩悩によるものでありますから、それらの一つ一つも結局は「空」なのです。すべてを「無」という言葉によって否定することによって、全世界すら、しょせん永遠に変わらぬ実体などはないと説いているのです。(諸行無常)

人間は、永遠の中にほんの一瞬だけ「生まれさせて」もらったのだから、もっと、この世を大事に生きなさいと、教えているのです。

一つ一つの感覚器官を、単に欲望を満足させるためにだけ用いているのでは、誠に申し訳ない。このことに気づかなければ、このお経を読んだことにはならないのです。と言っています。

もっとも大切なのは、心の問題です。と説いています。こだわりのない心をもつこと。

こだわり、わだかまりを超越してこそ、“真に自由な“人生の喜びを 見出すことができるのです。と教えています。

人は誰もが心の持ち方次第で、幸せにも、不幸にもなるのです。と教えています。

意識して無意識に徹すること

人間には、感覚器官である六根と、それぞれの対象である六境と、それらを受け止める意志である六識がありますが、最も重要と思われるのが、「意識界」でしょう。

医学の分野で「脳死」が話題になっていますが、脳の機能が停止した時を脳死と言っているようですが、これも脳の、意識界に通じる所があります。もし「意識」が失われれば、たとえ肉体が生き続けたとしても、本当の意味で「生きている」とは言えないでしょう。

では、現に生きている自分たちは「意識」を正常に働かせているか、というと、そうではなく、意識があるから煩悩が生じて、偏った考え方に囚われることにもなっています。

要は、見る対象があり、それを見る眼があり、しかも眼識として残しながらも、まったく煩悩を生じさせないことが大切なのです。それは、「意識」の中にとらえつつも、「無意識」を貫くことが大切なのです。そうすることが悟りの世界に近づくことになるのです。

「意識して自らの意志で無意識の世界を完成することができたとき」今まで、自分が引きずり回されていた価値観は無価値になり、求めていたものが、実は欲望の対象でしかなかったことに気付くのです。何だか難しくなってきましたが引き続きご覧ください。

つづきです。

眼がなくとも真実は見える。

眼を持っている人は、眼をもっているからこそ暗闇が不自由なのです。これに対して、初めから眼が不自由な人は、暗闇でも苦にしない「見える」のです。

私たちはせっかく眼をはじめとする六つの感覚器官をもっていながらも、それらを十分に正しく用いているでしょうか。

眼がなくても世の中の真実が見える人がいます。眼を持っていながらも、正しく物事を見ることができない人がいます。どちらが迷いの世界で苦しむことになるのでしょうか。

現実を先入観やこだわりを捨てて、そのままの姿で見ることが大切なようです。

「正見」です。

春になると精神的な病が増加するという記事を見ました。なぜ春になると増えるのでしょう。立春とは春の気がたつ。という意味です。寒さに耐えていた地中の草木の芽が一斉に芽吹く時期です。人間の中に潜んでいた病の気も同じく出てくると言います。

ではなぜ、病院で治療を受けていても、なかなか回復しないのでしょうか。

今日に記事の中でも、どんな薬でも副作用のない薬はないと言っています。「うつ病」や他の病気で投薬を長い間受けていますと副作用の薬害を受けることは間違いありません。と書かれています。

「うつ病」の根本的な原因は現代医学では解明されていません。専門医と言われる先生も試行錯誤しながら、カウンセリングや投薬で試しているのが現状です。

「うつ病」は精神的心の病です。私のところへ相談に来て、カウンセリングするだけでなぜ簡単に「うつ病」から解放されてしまうのでしょうか?私も不思議に思っています。

それは、根本的な原因を教えてあげることが出来るからではないかと思っています。

あまり簡単に完治してしまうので、不思議に思って親御さんが訪ねてくることが、ままあります。皆さん納得してお帰りになります。摩訶不思議なことがこの世の中にはあるのです。

もし友人知人で「うつ病」で困っている方がおいででしたら、一度私のところへお連れするか、来訪することを薦めてください。

いろいろな悩みを抱えている方に、その解決方法を授けて幸せになっていただくお手伝いを、無料ですることをサイドワークとしています。

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*無眼界 乃至無意識界  物があっても見る意思が無ければ・・・・。

 人間が眼を持っていて、眼の前に形ある眼の対象があれば見えるのか、耳が

 あれば人の話を聞くことができるのかというと、そういう訳にはいかない。

 見る意思・聴く意志がなければ見えないし、聴こえないのです。

 このように、見ようとする意志のことを眼識・眼識界と言い、耳識(界)、舌識(界)、

 身識(界)、意識(界)と言って、全体を「六識」と呼びます。

 経典の中では、中間の耳識・鼻識・舌識・身識の四つが「乃至」という言葉で省略

 されています。また最初の眼識界も、識の字が省略されて、「眼界」となっています。

 六根・六境と同じように見ようとする意志、聴こうとする意志、匂いを嗅ぐ意志、・・・

 というのを別のものと受け止めることが問題なのですから「無」という意味で否定し

 て、「空」であることを強調しています。

 「無」の心で見たり、聞いたり、話したりすることが大切なのかもしれません。

 前回より続き 

*無色声香味触法   ない物を見、ない音を聴く・・・・・・。

では、眼がありさえすれば見えるのでしょうか? ないものは見えない。すなわち、眼で見る対象があるから見えるのであって、そういった対象は、すべて形あるものですから,それを「色」と言います。「色」とは「形」ととらえてください。

同じように他の五つの感覚器官についても、耳の対象としては音や声、鼻の対象としては匂い(香)、舌の対象としては味(味)、皮膚の対象としては接触感(触)、そして心の対象としては法、ということになります。これら六つの対象を「六境」と言います。

心の働きは極めて複雑です。現在の時点で、思い出したり、未来のことを想像したり、ここに存在しないはずの物や音や香りや味や接触感を感じることさえ出来ないわけではない。

このように考えると、必ずしも物が無くても見ることができるし、ない音を聴くこともできるわけですから、見る対象が無ければ見えない、とするのは、迷いの世界に於ける相対 的な見方であるといった考え方もできる。そこで「無色声香味触法」となります。

 難しいですね、ムムム・・・。

今年も般若心経について書かせていただきます。この教えは本当の意味での人

生指針です。一流のスポーツ選手やゴルファーの方々は、この般若心経の写経

をしている人が多いのです。それは健康成人の集中力は2時間と言われていま

す。写経は集中して約2時間かかりますので、集中力を養うためにしていると言

います。皆さんも是非、今年は写経をしてみては如何でしょうか。

それでは本題に入ります。

*是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
   
ぜこくちゅう     むしきむじゅそうぎょうしき      むげんにびぜっしんい      むしきしょうこうみそくほう 

  無限界  乃至無意識界
   
むげんかい     ないしむいしきかい


 (現代語訳)
 したがって、実体が無いということの中には、形あるものはなく、感覚・記憶・意志・知識といった精神作用もないし、眼・耳・鼻・舌・身体・心・といった感覚器官もない。さらに、形・音・香・味・接触感・心の対象といった、それぞれの感覚器官の対象もないし、それらを受け止める、眼識から意識までの六つの心 の働きもないのです。

 *無色無受想行識

 お経では、この世のありとあらゆるものが「空」なのです。と説いています。そして

 「空」 の中には何もないのです、と展開してゆきます。

 色も受想行識もないと言っているのです。

*無眼耳鼻舌身意 見る、聞く、匂う・・・すべておなじ。

 人間には六つの感覚器官が備わっています。それを「六根」よんでいます。六つと

 は、 眼・耳・鼻・舌・皮膚そして心のことです。これらをお経の中では「眼耳鼻舌身

 意」と言っ ています。

 「眼耳鼻舌身」は誰でもわかります。問題は「意」つまり心の働きです。これには、

 感受性 としての「受」、記憶の働きの「想」、意志を意味する「行」、認識・識別の

 意味を持った「識」 という四つの精神作用や現代風の深層心理のような働きも含

 まれています。

 こういった人間の「心」、精神的な働きすべてをまとめて「意」という言葉で表して

 います。

 人間は常に煩悩によって乱されているので、六つの感覚器官を欲望のために使

 いがちです。だからこれら全てを清らかにしようという気持ちだけは持っていたい、

 という願いが、登 山のときの「六根清浄」という言葉で現代にも残っています。

 六根は別々の存在ではない、同じなのだと言っているのが「無眼耳鼻舌身意」な

 のです。

 般若心経ではすべてが「無」であるという事の教えですから「無」という字が多く出

 てきます。 

皆さんは良き人生を送るための指導書をお持ちですか?

いろいろな著書が出ていますが、基本的には皆同じような感じがします。

私のお勧めは「般若心経」です。たった262文字の中に生きるためのノウハウがびっしり凝縮されています。宗教なんて、と思われる方がおりますが、古来から仏教の教えにより日本人は教育指導されて現在に至っているのです。荒廃した現在の世の中を変えるにも必要な教えだと思っています。

皆さんも「般若心経」を一度ひも解いてみませんか。

*「不増」「不減}(ふぞう・ふげん) 

 お経の中で、「不増」と言っているのは、物事は一部の現象や姿だけから判断すべ

 きではない、と言っています。

 ちょうど“金は天下のまわりものという言葉に象徴されているように、発行された

 紙幣や貨幣が一定しているならば、個人として持っている金銭の額には変化が あったとしても、全体から見れば不増不減であるようなものです。

《総訳》

 “美しいものを尊び、醜いものを侮辱する

 “強いものに憧れ、弱いものは軽くみる

 “富を尊び、貧を下に見る

 “大なるものを崇め、小なるものは捨てる 

  人間は、なんと“相対的なるものに左右されて生きているのでしょうか?

  なぜ自分なりの基準、自分だけの“色めがねだけでもって、よのなかを見、

  かつ暮らしているのでしょうか? 

  そういうものが「苦」の原因になるとも知らずに・・・・・。

   この世の中に“絶対など存在しないのです。“絶対と信じている人間はいても

 “絶対はない、すべて“まぼろしなのです。このことを説いているのがこの章の言

  葉です。

  ・世の中のあらゆるものは“空なのだから、・・・・・是諸法空相

  ・それは本来、生じたものでも滅したものでもない・・・不生不滅

  ・汚れたものでも浄らかなものでもない・・・・・・・・不垢不浄

  ・増えたものでも減ったものでもない・・・・・・・・・不増不減

 この真実に、人間はなかなか目を向けようとしない。とらわれの心を持っているか らです。とらわれの心は“そこに何ものか永遠なる存在があると思い込んでいるから です。

   執着という名の不幸を取り除くことが大切です。

こういう落とし穴に陥らぬよう、もっと真実に目を向け。自分だけの思い込みなど捨 てなさいと説いているのです。

 「般若心経で学ぶ」はこれが今年最後です。来年またよろしくお願いいたします。

 皆さんどうぞ良い年をお迎えください。

*「不垢」(ふく)  きれいなもの

 きれいとか汚い、といった印象は、相対的なものであります。時代や国、風俗、習
 慣そのも左右されます。何が絶対的に“垢〟(きたない)であり〝不垢〟(きれい)
 であるか、というような基準はないといってよいでしょう。

  私たちが迷いの眼をもって〝垢〟〝不垢〟と差別しているあらゆるものが、あくま
 でも相対的な判断でしかないと分かります。お経の「不垢」は、世の中のあらゆる
 ものは「空」なのだから、汚れたものなどないと言っているのです。


*「不浄」 (ふじょう) きたないもの

     「永遠の美は幻に過ぎない」

 私たちが“美しい“浄らかであると考えているものもまた、相対的な判断にしか過

  ぎないと言っています。これが「不浄」です。

 仏教の修行の方法の中に“不浄観というものがあります。私たちが生きることのみ
 に執着したり、欲望を持つことから離れるために、いかに人間が“汚いもの“けが
 れているものであるかを認識する、というものです。
 
  どんなに若くて美しい女性でも、やがて老婆になれば醜くも汚らしくもなります。
 “美しいということは人生の一時期での現象です。“永遠に変わらない、というもの
  ではない。現在でも、その腸の中には糞尿が一杯詰まっているはずです。このよう
 な真実を見極めることも、人生にとっては大切です。

  きれいなものの裏側には必ず汚いものがある。永遠に浄らかなるものなど、ただ
 の一つもないのです。そういうことに一瞬でも早く気付くことが大切です。
 
 浄らかなものでもない、すべて「空」なのだから、と説いているのです。

 早くく気付いて迷いから抜け出して安らかな人生を送りたいものですね。

般若心経に学ぶ

*不滅(ふめつ)

死んでも無になるわけではない。霊魂の不滅を説いている宗教の場合は、たとえ肉体が消滅しても、霊魂だけは永遠に残る.とされています。

しかし、無我を主張している仏教では、初めから実体としての霊魂の存在は無いとしているので、もともと無いものが、死んだからと言ってなくなるとは考えない。そういう意味で「不滅」滅することが無いと説いているのです。

「不滅」とは本来、この迷いの世界におけるあらゆる存在や現象に、永遠に変わらず継続する実体が無い以上“生ずる〟ということも実体が無い、ということを言おうとしているだけなのです。相対的な消滅を超えたところにこそ、仏教の悟りが存在すると言っているのです。         お釈迦様の教えは意味深いですね。  つづく。
 

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担当者:ライフアドバイザー
あかおぎ ひろし

人は誰も幸せになるために生まれてきたのです。
自分や家族のいろいろなお悩みの相談を受けています。
汝、悩むことなかれ。どんな人でも悩みの無い人は居ません。
早く心と気持ちを軽くして、前を向いて生きて行きましょう。
多くの方が心と気持ちを軽くして幸せになっています。
どんなことでもご一報ください、無料で相談させて頂いています。