以心伝心。

嫁と姑の問題相談がありました。よくある話です。

何かと態度・意見や考えなどの違いから互いに牽制し合って旨く意思疎

通が出来なくなってしまいます。

みんなそれぞれに違う環境で育ってきたのですから互いに全て上手くゆく

はずはありません。

「この嫁とは何となく上手く付き合えないな」「この姑とは難しいな」などと

互いに心にあると相手にすぐに伝わるものです。これが以心伝心です。

友人同士でも、「この人は嫌だな」、「この人は好きだな」、などと心にある

と、その気持ちはすぐに相手にわります。

人の心は相手にすぐ伝わることを心してください。そして、それを変えるの

は自分自身です。相手のせいにせずに自分が変われば相手も変わりま

す。

苦を滅す八正道。  千 玄室。

新聞のコラム「一服どうぞ」に裏千家前家元千 玄室さんの話が載ってい

ましたのでご紹介します。

原文のまま。

仏教の教えに八正道がある。それは正見・正思・正語・正業・正命・正精

進・正念・正定で、これは釈尊の四苦八苦と共に人間の生き方を示された

ものである。「苦}を滅する方法として、この八つの正しい道を説かれた。

四苦とは生・老・病・死で人間は生まれてから死ぬまであらゆる苦を背負っ

ている。だからこそ少しでもその苦を自分なりに理解してそこから抜け出す

ために、八つの道のどれかでも実行することが大切だと言われる。

正見は何事も正しく見る、すなわち素直な心でものを見る努力。

正思は自己本位でなく、不平不満、邪心という我を捨てること。

正語は自分に都合の良い言葉を用いて人を陥れたり、悪口を言うことの

無いように。

正業は出来るだけ正しい行動や行いをする。そして正命は正しく生きるた

めに自分自身を叱咤し本道を歩む。

正精進は努力をする。物事を投げやりにしない。正念はたえず自分の心

が曲がってないか顧みる心を持つこと。

正定は信念をしっかり持って、あっちこっちへふらふらしない。こうした教え

は生活する上において大切な教えである。

こういうことはお互いに分かりながらも、浅はかな考えや我が先に立って

なかなか実践できないことである。

それとともに「気づく」、要するに「気が付くこと」が大切だ。それには気配り

や、いうなれば心がどれほど人のために生かされるかが問題となる。

昨年秋、私はウクライナのキエフを訪れ、首相や多くの老若男女に一のお

茶を差し上げて、日本の文化と伝統を紹介する機会を得た。その時にチェ

ルノブイリの原発事故で不幸にも被害に遭った被害者の会代表の4,5人

が会場に来られ、茶会終了後に担当者から紹介を受けた。いずれもご婦

人で歳をとっておられたが、そこで被害状況を写真や資料で説明を受た。

そして、「福島の震災で私たちと同じように故郷に住めなくなった方々にお

見舞いと激励を申し上げたい。そして今いただいた一のお茶のすがすがし

い緑の色が、どれほど私たちに生きる力を与えてくださったか。有難いこと

でした」とおっしゃった。

手を握り締め再会を約した。苦を背負い、苦を乗り越えて行こうという勇気

と、人間としての生きる在り方を示していただいたことは、まったく正定の

教えではなかろうか。

若き頃、大徳寺館長の後藤瑞厳老師のもとで修業したが、ある時「平常心

是道」と訓された。きわめて分かりやすいと即座に「わが道あり」などと申し

た。もちろんそれに対して「その道は如何に」とやり返された。即座に「茶の

道」と申すと老師はうなずかれた。特殊な目で見られる家元の座は、まっ

たく辛いものであり、修道を怠ることはできない。私にとって八正道は心の

支えとなっているが、どんな方にもこの教えを知っていただき、少しでもそ

の一つを自分の目標にされたらと思うのである。  (せん げんしつ)

素晴らしい話でした。みなさん如何でしたか?

人生の味わい「苦労のうちに楽しみを」

苦労のうちに楽しみを・・・・・・「菜根譚」

今、時々見開いている本に載っていました。

静中の静は真静にあらず。動処に静にし得来りて、わずかにこれ性天の

真静なり。

楽処の楽は真楽にあらず。苦中に楽しみを得来たりて、わずかに心体の

真機を見る。

「意訳」

環境を静かにして、ようやく心の静けさを保つというようではまだまだ。活

発な活動の中でなお心の静けさを保ってこそ、道を体得した者と言えよう。

楽しい場所で心を楽しませるというのではまだまだ。苦労の中で楽しみを

見出してこそ、心の不思議な働きを生かした者と言えよう。

「解説」

人間は精一杯仕事をして、今日の自分には何も言うことがない、よくやっ

たと、自己評価したときに、心の平静を得ることができる。

この自己評価が人生では大切で、人里離れ、社会との関係を断っていて

は自己評価はできない。なぜなら、自己評価といえども、あくまで社会との

関連にあっての評価であるからだ。

そして、その一日にいい緊張感があった時に、充足感を味わう、それが人

生の味わいではないだろうか。

というように記されています。緊張の中の充足感・・・・・味わったことありま

すか?

禅における真理とは。

この瞬間を生きる・・・が禅の教え。

新聞に桝野俊明さんのコラムがありました。禅宗の僧侶で庭園デザイナ

ーです。こらみの中の一説を紹介します。

 禅では人間の計らいごとを超えたもの、季節のうるおいなど変えようがな

いものを真理といいます。企業や社会の中にいると、相手のためと思った

ことでも、人間の計らいごとを超えていない場合が殆ど。自然界の大きな

中で物事をとらえようとすれば、何をなすべきか、今やらなくてはいけない

ことが見えてきます。

「いつやるの?今でしょ」という予備校の先生の言葉が話題になっている

そうですが、今なすべきことに集中するというのは、禅の生き方そのもの。

「而今(にこん)」といいます。一瞬一瞬の積み重ねが、一生を作り上げて

ゆく。極端にいえば、一呼吸の間に生きて、呼吸が終われば過去。失敗し

たことは引きずりがちだが、終わったことは取り戻しようがない。いつまで

も悔いていないで、なぜ失敗したか原因を明らかにし、同じような場面に出

くわしたら間違いを起こさないようにすればいい。悔やんでも、結果が変わ

るわけではないですから。

物事には原因があり、縁が訪れて因縁が結ばれ結果が生じる。いい縁を

朝に結んでおき、蓄積されるといい仕事もまわってくる。チャンスはみな平

等にやってきます。寝坊して準備が出来ていなかったら、チャンスは通りす

ぎてしまい、因縁が結べないのです。   と書いてありました。

一人で訪ねてきました。

7月の5日に少年が一人電車1時間掛けてで水戸まできました。駅まで

迎えに出て昼食をとり、家でいろいろ話ししました。

メールでは、いろんな悩みを聞いてほしいとの事でしたが、気分転換が

来て晴れ晴れとしたせいか悩みは消えてしまったとのことです。明るく笑

いながら話す姿は通常の少年と何の変りもありませんでした。

慈冶医大で診察を受けた結果は、うつ病ではなく「考えすぎ」と言われた

そうで、小父さんの言うとおりだったと笑っていました。「小父さんと知り合

わなかったら自殺していたかも」と言われた時はビックリでした。

菜園や涸沼などをドライブしながら話している姿はやはり少年ですよ。

涸沼は初めてでかなり関心が湧いたようです。帰りは車で少年の家の最

寄りの駅まで送っていきました。お母さんから何回も電話が入りましたが

いかにも電車に乗って帰途についているような話をして、帰ってからが面

白い展開になるなどと大笑いしていました。もう大丈夫でしょう。将来の事

や親にはあまり心配掛けない、などの話もチョットしてあげました。

「また来てもいいですか」というので何時でも出ておいでと言って別れまし

た。もうチョットで心配なくなるでしょう。

翌日、お母さんから電話があり「たった1日でこんなに状況が変わるんで

すね」とビックリしていました。「まるっきり元に戻ったような感じです」とお

礼を言われました。

登校拒否。

現在、登校拒否の高1の男子の問題で相談を受けています。県立高校

へ入学したのですが殆ど登校していません。対応に苦慮しての母親から

の相談です。

本人は病院でカウンセリングを受けたところ鬱病と言われて薬をいただき

服用したところ酷い副作用に見舞われて服用を止めたそうです。正解で

す。

本人に会って話をしたところ鬱病の気配はありませんでした。鬱病ではな

いと伝えてあげました。私と一対一で話すときは笑顔があり何の問題もあ

りません。悩みの原因も話してくれました。悩みは、「自分は何の為に生き

ているのだろうか」でした。

悩みに対して中学校の先生も親も何度聞いても返答が出来ずにいたよう

で、人間不信になってしまったようです。悩みに対する回答をしてあげたと

ろ納得ししたようです。完全とは言えないまでも安心したようです。母親

にも対応の仕方を何度も説明したのですが、やっぱり心配で毎日のように

電話があります。しかし、かなり回復してきた様子で、話もするようになった

ようです。今度一人で私の所へ遊びに来るようです。

本人の悩みについては、なかなか返答する事が出来る人は少ないです。

そこで悩み過ぎて何も手につかなくなったようです。真面目な人間の思春

期ですね。もう少しの間見守ってあげれば完治するでしょう。

人の評価。

社会の用に資するために人の技を用いるとき、評価すべきはその能力な

のか、それともその人の徳なのか、例えば、政治家を評価するときに、そ

の政治家の政策の実績を見るべきなのか、清廉潔白であることを重視す

べきなのかということである。私は前者だと考える。家に表口と裏口がある

ように、人間にも表口と裏口がある。裏口の門構えだけでその家の門構え

を評価できないように、その人間の裏口ばかりに目がいって、肝心要の表

口での活躍を評価しないのは正しいと言えないばかりでなく、評価する人

自身の器量の狭さをも意味している。

将の器ーー「孔叢子(くぞうし)」 古今東西の珠玉のことば・・より。

良く国会予算委員会などで野党議員が個人のプライベートの問題を出し

て追及していますが、この言葉に置き換えると追及する議員の器量の狭さ

を垣間見るようですね。

幸・不幸は感性の問題です。

「四苦・八苦」という言葉があります。現在では日常用語にも使われていま

すが、もとは仏教の言葉です。

お釈迦様は「人生は苦なり」と言われました。その苦を「四苦」と「八苦」と

に分けたのです。

「四苦」は「生・老・病・死」。「八苦」は愛する者との別れ・憎い人との共存・

求めるものが得られない不満・自分の身と心が思うとおりにならない現

実。を言います。

「苦」とは不幸と言えるでしょう。「苦」に対する「楽」は「幸福」ということに

るでしょう。本来「幸」も「不幸」も共に感性の問題であって、事実の比較

で判断するものではありません。経済的に豊かであれば「幸福」かという

と、そうとは限りませんね。裕福な人でも問題や悩みは抱えています。

現に私の所へも裕福なお金持ちの人も悩みを相談に来ます。

感性の問題として「生・老・病・死」を捉えますと、もとから「苦」と定まってい

るわけではありません。

「生・老・病・死」は命の有様なのです。生まれて死なない「命」がないよう

に。「私達は「生」を喜び「死」を嫌いますが「生・老・病・死」のない「命」は

ありません。

お釈迦様が「生・老・病・死」を「苦」と説かれたのは、「生・老・病・死」を「不

幸」と感受することの愚かさを知らせてくれたのです。生まれてきたこと・老

い・病・死を不幸としか感じられない、愚かで誤った感性。それを明らかに

されたのです。

「因我にあり」

いろいろな相談がありますが、特に対人関係や嫁舅の問題などは困った

問題です。対人関係などは自分が変わらなければ相手も変わりません。

そのことを分かっていない方々が多いです。

自分の事だけを考えてしまうのでしょうね。全部相手が悪いと思ってしまう

のです。問題はどこにあるのか?を考えますと、問題は自分に合った事し

か起こりません。自分で殆どの事が解決できるのです。まさに原因は自分

にあるのです。「因我にあり」です。

一度そう思って考えてみてください。分かったら実行してください。問題は

解決しますよ。

名と身と孰れか親しき。身と貨と孰れか多なる。得ると亡うと孰れか病になる。ナ ト ミ ト イズレカ シタシキ。 ミ ト カ ト イズレカ  タナル。  エル ト ウシナウト イズレカ ヘイニナル。

甚だ愛すれば必ず大いに費やし、多く蔵すれば必ず厚く亡う。ハナハダアイスレバ カナラズオオイニツイヤシ、オオク ゾウスレバ カナラズ アツクウシナウ。

足るを知れば辱められず、止まるを知れば殆からず。以て長久なる可

し。・・・・・老子。

タルヲシレバ ハズカシメラレズ、 トドマルヲ シレバアヤウカラズ。 モッテ チョウキュウナルベシ。

足るを知れば辱められない。止まるを知れば危険に陥ることもない。

足るを知り、止まることを知ることによって、人は長く久しく、健康に保つこ

とが出来るのである。    と言う事だそうです。

又、編集者は、名誉や財産は生命に比べれば価値のないものだと説く老

子の教えに立たなくとも、それらに執着することは賢明でないことは分か

る。というのは、名誉・財産はこの世において公平に与えられるものではな

い、元来不公平なものであるからだ。そんな不公平なものにいたずらに執

着するのは、心を労するだけで益少なしである。むしろ、持たなくてもいい

不平・不満を生じさせ、その不満顔が人間関係をも悪化させてしまう。

こういった不公平な名誉・財産に対しては、少ないと言って現状に不満を

持つのではなく、あったらいいな、ぐらいの軽い希望として捉えるのが、賢

明な姿勢と言えるのではないかと思う。  と言っています。

老子の教えってすごいですね。

2月10日の新聞のコラム「一服どうぞ」で裏千家元家元 千玄室さんの記

事がありました。表題は・人間だれしも「鬼」になる・です。

節分の由来が書いてありました。鬼は実際に居るわけではない。自分自

身があるときは鬼になっているのである。心の中で善と悪とが闘っている

毎日であることを省みれば、何かの機会に悪を払い、善に向かうと言う決

意を示さなければならない。

現代人はすべて何らかの悪鬼になっている。正しいと思っていても自分の

うぬぼれであり、かえって人に迷惑をかけていることもある。

全く私たちは何時も嘘いつわりの世界に常在しているのであり、自分をな

だめすかして生きているようなものである。一度豆を自分にまいて、自分

の中に棲む気弱さや悪を除けば如何なものだろうか。

あるとき悟りを開こうと努力していた一人の僧が巴陵(はりょう)という禅師

に「如何なるか是提婆宗」と問うた。このインドの提婆尊者は仏教外の信

者だったが、悟るところあって仏教に転向した人である。そして大徳(徳を

積んだ人)と呼ばれていた。

この問いに対し禅師は「銀椀裏に雪を盛る」と答えた。よく善の問答で「如

何なるか是仏法」などと言う。それと同じだが、かつての洞山禅師はそうし

た問いに「銀椀裏に雪を盛り 明日に鷺(ろ)を蔵(かく)す」と答えられた

が、その前句を巴陵は用いたのである。

真っ白な銀の椀に真っ白い雪を盛ればどちらが椀か雪か分からない。見

分けがつかない。それでは一つになっているかというと、そうではなく雪と

椀とはあくまでも別のもの。すなわち自分と他人とは一体ではない、不一

不二を示す。

人間は集ずれば差別し争いをする。しかし、雪も銀椀もない無の真実を知

ることによって「我」が存在するのであることを訓されたのである。

もし気に入った者同士が集まったとしても何かの機会に分裂する。信や情

や絆がといってもそれが消失してしまうのが、人間社会である。今年は豆

を周辺にまいて己をかえりみる機を作ることが大切な事である。

と言うように書かれていました。何か身につまされるような言葉ですね。

仏教の「四苦八苦」の中の八苦の中に「怨憎会苦」(おんぞうえく)という言

葉があります。意味は、怨み憎む者に会う苦しみと言う事です。

自分を憎み、嫌いだという相手への思いは、必ず相手にも反映して、自分

のことを憎み嫌います。

相手がなぜ自分にとって嫌いなことをするのかということを考え、相手の立

場に立って想像力を働かせれば、その人が生まれつき愛されない環境に

育ったとか、あるいは、ずっといじめにあっていたとか、欲求不満の固まり

であるとか、そういう事がわかります。そうすれば、ただ憎むよりも哀れみ

を感じることが出来ます。

憎しみを哀れみに変えることが出来れば自分も救われます。

普段、誰でも心で思われることがあるでしょうが、相手を哀れみの心で接

すれば、いくらか楽になるのではないでしょうか。

人間として生きている以上、自分の心の中の煩悩によって苦しまなければ

なりません。

煩悩=欲望が苦の原因なのです。煩悩を取り払えば苦から逃れる事は出

来るとわかっていても、人間は死ぬまでそれを取り払えることは出来ない

でしょう。

煩悩の中身についてお話します。

煩悩貪、瞋・癡(とん・じん・ち)の三つです。これを三毒と言います。

貪欲(どんよく)・・自分の好む対象に向かって貪り求める心です。

に限らず、地位・名誉・富・性愛すべてに貪が作用します。人間の欲望

は際限がありません。何事も小欲で「足るを知る」という心掛けが必要で

す。

瞋恚(しんい)・・瞋(じん)とは、自分の心に逆らうものに対して怒り怨

むことです。怒り怨みを持てばその対象に敵意を抱くことになります。

愚癡(ぐち)・・癡とは愚かさですが、仏教でいうおろかさとは、教養が

無いことではありません。差別する心、自己中心的な考えな人を癡愚(ち

ぐ)な人と見るのです。

簡単に説きますと、ねたむ・怒る・愚痴るこれが三毒です。誰もが何か一

つ毒を持っていませんか?

三毒を取り去ることは難しいことですが、何か一つでも取り去ることが出来

れば良いとしましょう。

人は練磨により仁となる。  道元

玉は磨くことで初めて価値が出る。人も自らを磨き鍛錬して初めて真の人

となる。世の中に初めから光り輝いている玉があるだろうか。初めから優

れた働きをする人がいようか。とすれば、必ず磨き、鍛錬すべきである。

決して能力や素質が無いと自らを卑下して道を学ぶ努力を怠ってはいけ

ない。

人生においてもう一つ大切なのは、自分を磨いてくれる師匠を見つける、

自分にとっての伯楽を見つけると言う事も欠かせない。

もちろん、それは運命的な出会いや巡り合いによる場合も多いが、自らそ

ういった人を求め続けていればそういった伯楽と巡り合えるチャンスも増え

る。又、いまだに自分を完全に磨いてくれる伯楽が見つからなかったとして

も、自分を認め励ましてくれる友人も立派な伯楽であり、そんな伯楽な友

を持つことは人生を味わい深いものにしてくれる。

と言っています。あなたも自分の師匠や伯楽な友をもっていますか?

貫き通してこそ・・・「唐書」

人は何らかの目標を立てる。その時、その願いが叶うかどうか、先くぐり

して考えない方が良いでしょう。

目標を実現することが肝心なのではない。目標に向かって一歩一歩進む

ことが大切なのである。

もともと人間の寿命は約束されていない。

人生とは生き続ける事である。生きることに張合いを感じること。それが人生の喜びである。

到達が問題なのではない。過程こそが人生のすべてなのである。

以上のように記されています。 あなたはどう思いますか?

目標に向かって日々努力することが人生のすべてであると言う事のようです。

二人目の子供が10月に生まれるので名前を選んでほしいとの相談があ

りました。一人目も相談受け選んであげました。今度は男の子だそうで

す。

10月に生まれるお子さんが3人います。名前の相談を受けています。

先月相談に来られたお嫁さんのお父さんは一つの名前だけ書いてきまし

たが、これがズバリ良い名前で今迄に一つだけの名前でこんな良い名前

はありませんでした。若干の問題はありましたがそれは、将来自分で変え

る事ができる事なのでその旨書いてあげました。大きくなったら子供に持

たせるそうです。

命名はその子の一生を左右するかもしれない、などと言われますので慎

重に取掛っています。

「敵を知り己を知れば・・・・・」として知られる格言の原点。

敵を知ることは難しいが、己を知ることはもっと難しいことです。「言うは易

し、行うがは難し」ではないがもし己を十分知ることが出来るなら、それだ

け傑出した人物と言えるでしょう。

岩波茂雄が自分と他人を比べ、その力を計る時の心構えについて語って

いる。

「相手が自分よりチョット上だなと思った時はものすごく上だなと思え、相手

が自分と同じくらいだと思った時は相当上だと思え、相手が自分よりかなり

下だと思った時が丁度自分と同じくらいなのだ」

この言葉は、人間がとかく自分を過信し過大評価してしまいがちなのを戒

め、他人を評価するときのポイントを明かしている。

つまるところ、絶えず自分の過信を抑え調整する意志力がカギになってく

るのだろう。と、言っています。岩波茂雄・傑出した人物ですね。  自重・

自重・・・・。

われ、事において後悔せず宮本武蔵の言葉の一節です。

人間が成長するのは、すべてについて反省するからである。過去現在に

おける自分の言動を、顧みて静かに点検する。そして今後は過ちの少な

からんことを願う。

これからはもっと賢く世に生きようとする。つまり、反省は前向きだから意

味があるのです。

反省の度が過ぎて後悔となる、後悔の念があまりに深すぎると、だんだん

自己嫌悪におちいる。そしてだんだん落ち込むのです。後悔は未来への

バネにはならない。後悔は人間を奮い立たせてくれないのです。

明日に向かって反省はするが、昨日にこだわる後悔に沈み込まない。ここ

の兼ね合いに処する知恵が、人生に意欲を生むでしょう。

と、書かれています。如何ですか?

今、「仏教対人心理学読本」小池龍之介著。を読み始めました。

現実の中で「ありのままの自分」をさらけ出して生きる事は不可能である、

と説いています。

常に人は、本当の自分を抑えて建前を作って周りに自分を合わせて生き

ているのです。本当の自分をさらけ出せるのは恋人か家族以外にはない

ようです。

この建前(嘘の自分)のおかげでストレスがたまるような気がします。本当

の自分をさらけ出せる環境に中に居られたら、こんな気楽なことはないで

しょうね。

面白い本ですので読みこんでゆきたいと思います。   ではまた後で

何事にも成功するために心がける事、それは「己に克つ」ことである。

西郷隆盛の「己に克つ」について

道は天地自然の道理であり摂理であるから、学問の修得は敬天愛人を目

的とし、自己修行には己に克つということを絶えず心がけることだ。己に克

つための鍵は、論語にあるように「あて推量をしない、無理押しをしない。

固執しない。我を通さない」ことだ。

すべからく人は己に克つことによって成功し、己を愛することによって失敗

する。

成功するまではよく己を慎み、事に対しても慎重に行うから成功もし名も

顕れてくる。ところが、成功して有名になるに従って、いつの間にか自分を

愛する心が起こり、おそれ慎み自らをいましめるという気持ちが緩み、おご

りたかぶる気分が生じ、その成功した事業をたのみに自分には何でもでき

るという過信のもとにまずい仕事をするようになり、ついには失敗してしま

う。これらは皆、自ら招いた結果である。

だから、絶えず己に克ち、人の見ていないところでも聞いていないところで

も自分を慎み戒めなければならない。

と、書いています。私も、もう一度「己に克つ」ために反省しようと思います。

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担当者:ライフアドバイザー
あかおぎ ひろし

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自分や家族のいろいろなお悩みの相談を受けています。
汝、悩むことなかれ。どんな人でも悩みの無い人は居ません。
早く心と気持ちを軽くして、前を向いて生きて行きましょう。
多くの方が心と気持ちを軽くして幸せになっています。
どんなことでもご一報ください、無料で相談させて頂いています。