「仏説般若波羅蜜多心経」はお釈迦様が説いた「経」なのです。それが「般若波羅多」です。
つまり、お互い傷つけあい、迷い、苦しみ、悩むことの尽きない、私達が住むこの世(此岸)から、完全な悟りの世界、つまりあらゆる煩悩の火が消え去った静寂な世界(彼岸)へ行くために必要な実践行のことが書かれています。
釈迦の教えは、人間としていかに生きるべきかの教えなのです。
「仏説般若波羅蜜多心経」はお釈迦様が説いた「経」なのです。それが「般若波羅多」です。
つまり、お互い傷つけあい、迷い、苦しみ、悩むことの尽きない、私達が住むこの世(此岸)から、完全な悟りの世界、つまりあらゆる煩悩の火が消え去った静寂な世界(彼岸)へ行くために必要な実践行のことが書かれています。
釈迦の教えは、人間としていかに生きるべきかの教えなのです。
本文の意味について
「仏説摩可般若波羅蜜多心経」 (ぶっせつまかはんにゃはらみたしんぎょう)
仏説=仏(釈迦)の説いた教え。
摩可=大きい・非常に・まことに意味深い、と言う意味。梵語のマーハーの音写。
般若=仏陀の会得した正しい智慧。
波羅蜜多=到彼岸(彼岸に至れる)。 梵語のパーラミターの音写。パーラム(彼岸)イター(到達する)の意味。
彼岸とは「悟りの世界」のことで、そこに到達した者こそがブッタとなることが出来るという意味。
「悟りの世界」とは“死すること生きるがごとき境地”を示す。思いわずらいいも消え、苦しみのない静かな世界。パーラミターというのは、悟りの世界に到達するためにしなければならない実践工(修行)のことです。この実践行は全部で六種類あり、それらを六波羅蜜(ろっぱらみつ)、六波羅蜜多(ろっぱらみった)という。
心経=心(梵語のフリダヤを翻訳したもの) 経(梵語スートラで、仏教的には、永遠に貫く教えの綱要、と言った意味。 最も肝要にしてつらぬく教えが「般若心経」であるという事になります。
「般若心経」は般若経の真髄と言われています。
玄奘三蔵が天竺から持ち帰った仏教経典群は、数ある仏教経典の中では「般若部」と言われる経典群が主でした。普通は“お経”というと、仏教聖典総てを含めたものと理解しがちですが、もともと仏教聖典には「経・律・論」と三種類あったそうです。
経(きょう)=仏教の開祖である釈迦の教え。
律(りつ) =僧が守るべき社会生活上の掟。
論(ろん) =釈迦の教えに対する解釈や注釈。
以上の三つで、これをまとめて「三蔵経」とか「大蔵経」「一切経」とよんで、その数は五千部を超えると言われるほど多いそうです。
仏教は、紀元前五世紀ごろ、釈迦を開祖として出来た宗教ですが、これらの経典については、すべてのものが一度に出来たものではなく、数百年もかかって徐々に現在の形にまとめられてきたといいます。紀元前後ごろになり、仏教の中にも大きく二つの流れが出てきて、それまでの仏教の立場は、どちらかと言うと出家したお坊さん中心のものであった、教義にも消極的・虚無的な解釈をしていたのです。これらを小乗仏教と名づけて批判するという形で大乗仏教がおこったのです。
その中で最初の大乗経典として出来たのが「般若経」で、そして、それを初めて中国語に訳したのが玄奘三蔵だったというわけです。「般若経」は、それ自体、膨大な経典群でしたが、それらの精髄を取り出し、まとめたのが「般若心経」なのだそうです。
経典は、古代インドの雅語であるサンスクリット語(梵語ともよばれる)と、一種俗語のパーリ語でした。そしてパーリ語の聖典が、インドから南方にある国々に伝えられて上座仏教(小乗仏教)の聖典となったのです。一方、梵語の聖典は大乗仏教、北方仏教の聖典とされ、これらは、主にインドより北の方へ、中国語やチベット語をはじめ、さまざまな国の言葉に翻訳されて、広められたと言います。
こうして、梵語から中国語に翻訳されて日本に伝えられたのが「般若心経」なのです。
「般若心経」は私達に何を語りかけようとしているのでしょうか。「般若心経」世界は広大・深遠という言葉が無意味なほど広く、深い世界です。
たった二六二文字のお経は、私達をさまざまな悩み・迷いから救ってくれるのです。
「なにものにもとらわれず、あるがままの姿で生きて行く素晴らしさ」を会得できるのです。
今を生きる私達にとって、絶対的事実である「死}と言う問題にも、一つの回答を与えてくれる事 でしょう。あなたも「般若心経」を紐解いてみませんか。
毎日を苦しみ・悩み・迷いながら、心のふれあいもままならず、個性を埋没させて生きている。
そんな現代人のために、“おおらかに生きるための知恵と方法論”が見つけられる教本がこの般若心経なのです。
この世に人間として生を受け、成長するにしたがい、我々の一人ひとりが、何かを成し遂げようと念願しながらも、知らぬ間に老いてゆくのが人生の姿なのです。
人間としてせっかく生まれさせてもらったのですから、せめてこの世に生きている間に、自分が生きていることの本当の意味を考えて見ましょう。
『般若心経』は現代に生きる途を教えてくれる。
お経というと葬儀や回忌供養のときにだけ、と思っている人が大半ですが。実は、お経は現世に於ける生きる指針を示している教えなのです。たった262文字の中には、計り知れない程の深い人生指針が凝縮されているのです。
三蔵法師がインドから持ち帰り中国語に訳したものです。三蔵法師は「玄奘三蔵」と呼ばれた実在の人物。三蔵法師と言う名前を聞くと、孫悟空たちと一緒に、天竺(インド)までお経を受取りに行った中国のお坊さん。と皆さんが思い、知っていると思います。
「西遊記」はこの大旅行を記録したものです。
花山 勝友著 「絵で読む般若心経」 ㈱日本実業出版社版より
何回となく般若心経を読んでいますが、毎回新しい発見があります。今回から般若心経を読んだ感想を書きたいと思います。般若心経の本は数冊読んでいますが、誰にでも分かりやすく記載されているこの著を元に御紹介します。
正式には「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」と言います。「仏」とはお釈迦様のことです。そのお釈迦様が「説」いた「経」なのです。それが「般若波羅蜜多」心経です。
お互い傷つけあい、迷い、苦しみ、悩むことの尽きない私達の住むこの世(此岸(しがん)から、完全な悟りの世界、すなわち、あらゆる煩悩の火が消え去った静寂な世界(彼岸)へ行くために必要な実践行のことが書かれている経なのです。「摩訶」とは、人知も及ばない意味深い教えだと強調した言葉です。
誰も、心の中に傷を持っていたり、悩みを持っているものです、それはこの世に生きている限りは、決してなくならない。ですから、この世に生きている間に「静寂な安らぎの境地」に到達すればよいのです。その知恵と実践論が書かれているのが「般若心経」なのです。
30年来の友人が、定年して第二の職場に付、5年間活動してきましたが、この六月一杯で退職となります。わざわざ東京から挨拶に来ていただきましたが、何故か寂しい気分です。
本人は、まだまだ元気でやる気十分なのですが。第三の職場の話もあるようですが、今まで一生懸命働いてきたのですから、この辺でゆっくり奥様と老後を過ごすことが出来れば良いと思いますが、現在の日本の社会保障の状況では、そうも出来ないのが現状です。
寂しい国ですね。私は自営ですので定年はありませんが、やはり先々が心配です。経済面や体調面、何時どうなってもおかしくない年齢です。毎日を無事に過ごせることに感謝しながら、前向きに生きて行くように努力して活きたいと思います。
人生、悔いなき生き方などは出来ないと思いますが、出来るだけ少なくして行こうと思います。
お訪ねしてくる相談者の殆どが、悩みぬいた挙句、相談に来られます。
しかし、自分の口から悩みを発露して、それを聞いてあげることによって、すぐに表情に変化が表れます。もちろん安堵の表情です。そして、いろいろアドバイスをさせて頂きますと納得して、また表情が変わります。お帰りになるときは別人のようです。
悩みは一人で考え込むと、益々大きくなります。聞いてくれる人に話しすると、悩みは相当に軽くなります。一人で抱え込まないでください。簡単なことで解決できることが多いです。
不安な気持ちはわかりますが、どうぞ話をしてください。きっと解決できると思います。
幸せと不幸は表裏一体、ではないでしょうか。今日、幸せを感じても、明日はわからないのです。人生は幸せ〜不幸〜幸せ〜不幸の繰り返しで、振り返ってみて幸せの数が多ければ幸せだったんだナ。と思えるのではないでしょうか。
幸せも、不幸も、諸行無常です。人間の寿命も、人生も諸行無常です。
少しでも幸せを感じる生き方をしたいものです。
今日の一言(外山武史さんの言葉より)
ときには大胆に
確かさばかり求めてぐずぐずしている人には大きなことは決してできない。
イギリスの女流作家、 ジョージ・エリオットの言葉。
耳が痛い言葉。というのも僕は、親から「石橋を叩いても渡らない」と言われるほど、慎重な子どもだったからです。
多少のリスクを背負わなければ、前には進めない。
一歩目を踏み出せずに、悔しい思いをするのは嫌。だから、ときには大胆に行動したいと思います。慎重すぎる方は、一緒にぜひ。
(外山武史)
なかなか、その一歩が踏み出せないのですよね。頑張ってみましょう。
今日の一言を見つけましたので紹介します。先人は良い言葉を残してくれました。
ほめ言葉をケチるな
ほめ言葉をもらえば、それだけで二ヵ月間、幸せに生きられる
『トム・ソーヤの冒険』でお馴染みの作家、マーク・トウェインの言葉。
学生時代、ほめられることが多かった人も、社会人になると人からほめられる機会が少なくなる。その分、ほめられたときは嬉しく感じるものだ。ほめるだけで、人を幸せにできるのなら、もったいぶらない方がいい。
それに、他人をほめれば、いつか自分にも返ってくる。そんな気しません?(外山武史)
人は誰でも、ほめられると嬉しいし元気が出ます。やる気にもなりますね。大人になっても人を褒めることは大事なことではないでしょうか。
禅語の教え
*喫茶去(きっさこ) 本物のもてなしの心
数ある禅語の中で、一番読んでホッとできるのが、この「喫茶去」ではないでしょうか。
と書かれてています。意味は「お茶を一服いかがですか」「お茶でも召上がれ」という言葉です。「喫茶去」と言って接する心には、貧富や、男女、自他の分別はないのです。
古来、茶道家はこの「喫茶去」の語を茶掛けにして、みずから無心に茶を点てて、貧富貴賎の客を選ばずに施す心を養ってきたようです。
私達は、好きな人や偉い人、見返りを期待できそうな人には丁寧にもてなし、嫌いな人や興味のない人、印象が悪い人にはいい加減な対応をしてしまいがちです。「喫茶去」の心をもって、誰に対しても分け隔てなく、真心から接したいものです。と書かれています。
明日からでも「喫茶去」の心境で人には接しましょう。自分がこの心境で人に接すれば、また、自分も相手から「喫茶去」の待遇を受けるのです。
地獄・極楽の話は御存知でしょう。地獄はあの世のものではないのです。
現世で悩み・苦しんでいることは地獄の苦しみと同じなのです。なぜ人間は悩み苦しむのでしょうか? それは前世からの償いです。人間は誰も前世があります。前世の罪と現世で犯した罪が重なると「宿業の余罪重障にして・・・・」と罪が重なり苦しみ悩が増すのです。
人間世界に生まれた我々はまだ救われる道があります。犬や野犬や虫などに生まれ変わった者はどうにもなりません。人間と生まれた我々に課せられた課題は「償い」です。
人間は前世・過去・現在に犯した罪の償いをしなくてはなりません。償いが完全に実行されることにより、再び転生する事はなくなります。大変難しいことです。
殆どの人間は永遠に輪廻転生を繰り返し来世に再び生まれてくるのです。これが人間です。
生きている内に少しでも「自利利他」の心境で徳を積み生きることが大切です。
*妄想
なぜ自分の思い通りにならないのか。他人ばかりいい思いをするのはなぜか。
私たちはそんな考えにとらわれがち。でも怒り、嫉妬、不安、憎しみなど心に
生まれる負の感情は、自分の心が勝手に作る「妄想」だと気づけば、人生が
スッと楽になるはず。
*看々臘月尽(みよみよ ろうげつ つく) 人生は短い
臘月(ろうげつ)は、十二月の別名。看々(みよみよ)は、良く見なさいの意味。
見時通り解釈すれば「もう十二月も終わってしまいますよ。月日の流れの
早いことをよく見なさい」ということになります。
「臘月」は、十二月を示すと同時に私達の人生も暗示しています。十二月
があっという間に終わるのと同じく、人生もあっという間に終わってしまい
ますよ、ぼんやり生きず、命 の尽きる時をしっかり見なさい、と諭していま
す。
どんな風に生きても、一生は一生。だらだら過ごしても、目標を達成するた
めに努力しても、時間は同じ速さで流れていきます。人生の終わりに後悔
しないためにも、やり残しは作らない。そのためには、やるべき時が今だと
思ったら、後回しにしない事です。
「明日やれば」「また今度」と言っているうちは、何時までも実行できませ
ん。
慌ただしい年の瀬、この言葉を思い出して「人生の臘月」について考えるこ
とは、怠けがちな自分を戒める、良い機会になります。
私たちはつい「次にするか」とか「今日はいいや」等と何かと後回しにする
ことが多々ありますが、これはやり残しを作る原因ですね。何事も後回し
にしないで気が付いたときに即実行することですね。「光陰惜しむべし、時
人を待たず」という言葉がありますよ。
*他是不有吾 (たはこれわれにあらず) 人生にピンチヒッターはいない
曹洞宗の開祖、道元禅師の修業時代の話で、禅の道を求めて宋代の中国に留学した若き道元は、夏の炎天下で、食事を担当する年老いた典座が、茸を干しているのを見ました。
老典座にはつらそうな仕事なので、道元は思わず「そんなきつい仕事は、使用人に頼めば良いではありませんか」と言いました。老典座の答えは「他は是れ吾にあらず」、他人に任せてのでは自分の修行にならないということです。道元が気遣って「なぜ、こんな暑い中で苦労されるのですか?」と尋ねると、老典座は「さらに何れの時をかを待たん(今やらずに、いつやるのか)」と答えました。
面倒なこと、気乗りしないことも、今この時にすべきことは後回しにしない。この日、この時がつねに「一大事」だから、決して疎かかにしてはならないことを、この言葉は示しています。
これは、私たちの日常にもあてはまります。注目を集めやすい仕事、目立たない仕事、楽な仕事やきつい仕事など、様々なものがありますが、どんなことでも求められる役割を、一心に勤めあげ、全力を尽くすことが大切です。
一人ひとりの人生には、ピンチヒッターもピンチランナーもいません。それぞれが、一人で歩まなければなりません。やる気がなかなかでないとき、「他は是れ吾にあらず」と、そっと唱えると、元気を分けてもらえる気がします。
人生は一人で歩まなければならない厳しい現実です。と言う事ですね。
禅語の教え
*大道無門(だいどう むもん) 目標に向かって前進あるのみ
「大道」とは真理にいたるための道。その大道には門が無い、つまり入り口がないという意味です。大道は仏道の道に即して生きることで、そのための決まった道があるわけではありません。でも無門といい、千差路有りといいながら、安易に無門を通過できるものではありません。入り口のない無門はそのまま難問の関所であり、ただでは通れない無門関です。命を惜しんで修行し、仏意にかなう手形を得てはじめて門を通過したとき、ついに何ものにも縛られず、自由自在な境遇に至れるのだといいます。これは修行者に示した言葉ですが、私たちの人生にも当てはまります。
私たちが目標に向かって進むとき、その道は一本だけとは限りません。人生の道は、一つではなく千差路あり、どの道を行くにしても、しっかり目標を定め、確かな足取りで実践してゆきたいものです。と書かれています。
どの道から入ればいいか悩んで進めなくなってしまうより、実際に行動し、努力するほうがより現実的です。先ずは前進のみです。
某車のディーラーの所長さんと話す機会がありました。日頃の仕事に大変お疲れの様子でした。上からは売り上げ増強を押し付けられ、下からは仕事の多さに苦情を言われて中間管理職は大変な苦労をしているようです。企業は業績を伸ばすために躍起となって部下に対しては唯数字ありきで目先の数字に翻弄されている社員は見ていて可哀想なようです。
数字のみで判断していると、おろそかになるのが人間としての基本ではないでしょうか。業績を 伸ばす事にだけ気をとられていると今回のトヨタのリコール問題のような結果になること請け合 いです。話を聞いていると地獄を見ているようです。餓鬼地獄でしょうね、何も無くて人の吐い た つばや痰、排泄物までも食べて生きようとしている状態。他人はどうでも自分だけ良ければ 何 でもあり。今はこんな時代なのでしょうかね、嘆かわしい時代です。
数字ありきのみに走っていると必ず問題が起こります。人間関係・コミニケーション不足など現代の問題です。笛吹けど誰も踊らず、になってしまうような気がします。もう一度離れた所から冷静に見つめなおしたほうが良いのではないでしょうか。 企業は人なり、お金や業績は後からついて来るもではないですか。
●癒しの禅語
*生死事大(しょうじ じだい) 自身に問いかける「生」 六祖壇経
私たちは皆、さまざまな希望を持って生きています。何を目標にするかは人それぞれですが、人生で最も大切なことは結局「どう生きていくべきか」を問い続けることです。
「生とは何か」「死とは何か」「人はいかに生きるべきか」を考えることです。
この世では、生まれたものは必ず死に、出会ったものはいつか別れ、持ったものは失い、作ったものはこわれます。時は矢のように過ぎ去っていきます。すべてが「無常」です。
はたしてこの世に、無常でないものなどあるでしょうか。と書かれています。
禅宗の僧堂では毎日、朝夕の時を告げたり、法要を知らせるために板木(ばんぎ)という法具を打ち鳴らします。皆さんも見たことがおありでしょう。その板木の表面には、この言葉「生死事大」が墨書きされています。今度見かけたらよく見てみてください。
あなたは、与えられた一生をどう生きてゆきますか?もう一度考えてみませんか。
友人と温泉に行きながらの話しで、職場の人間関係、地区内の人間関係・友人との関係と話が 進みました。結局のところ、お互いに長くお付き合いを続けるには、相手の気持を察することが 一番大切ではないかという結論に達しました。お互い心を開いて話が出来ることは一番です。
互いを気遣い相対してゆくことが長くお付き合いが出来るコツ。
自分が、私がと「我」を張っていては何事も上手く行きません。素直な心で聞く耳を持ち話し合え る状況が大切です。現代の日本人は何か忘れているような気がしますが、あなたは如何に思いますか。
担当者:ライフアドバイザー
あかおぎ ひろし
人は誰も幸せになるために生まれてきたのです。
自分や家族のいろいろなお悩みの相談を受けています。
汝、悩むことなかれ。どんな人でも悩みの無い人は居ません。
早く心と気持ちを軽くして、前を向いて生きて行きましょう。
多くの方が心と気持ちを軽くして幸せになっています。
どんなことでもご一報ください、無料で相談させて頂いています。
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