今日で子供は14日目です。一晩に数回オッパイを飲みます。そのたびに起こされます。

オシッコや排便は、ミミが舌でお腹を刺激してさせてる様子です。一切汚しません。

ここ数日、授乳が終わると私の体に寄り添ってきます。うっかり動けません。

今朝、5時ごろ目を覚ますと、子供が私の枕に顔を乗せて私のあごの所に寄り添って寝ていました。そしてミミも並んで顔を出して寝ています。一人と二匹で川の字に並んでいました。

マミーが部屋に来て覗いて笑っていました。

何だか毎日ミミ親子に振り回されているようです。子猫は日ごとに可愛くなっていくようです。

本当に動物は癒しになりますね。

飼い猫のミミが子供を生みました。それも一匹です、今日で13日目です。八日目にはじめて見ました。それも夜になって寝る時間に、私の寝床へ子供を咥えて入ってきたのです。

困りました。まだ手のひらに乗ってしまうほどの大きさです。可愛いです。

寝返りを打って潰してしまっては大変なので一晩中眠れませんでした。ミミはそのまま子供と一緒に昼も夜も居座っています。今日で6日目です。子猫は3日前ほどから目が開きました。

本当に可愛いですよ。孫は毎日学校から帰るとまっすぐ見に来ます。早く抱いてみたいと言って楽しみにしています。本当に癒しになります。

動物の子供に対する愛情は人間以上のように思えます。早く親子で出てこないかと楽しみにしています。ミミはトラ模様で子供も同じトラです。寝姿が可愛いです。

軽井沢の「石の教会」を見学する機会がありました。内村鑑三の記念館として建てられているようです。

内村鑑三という名前は、はるか数十年前に中学校の教科書で見たような気がします。

69歳で心臓病により亡くなられたそうです。明治・大正期のキリスト教者で「無教会」は内村鑑三に依って初めて語られた言葉です。と書かれています。その一部を紹介します。

      教会のすべてを「無」にするという意味ではありません。

                  教会とは

          制度が{無」くても、たとえ信仰が「無」くても

                 祈りたい人が

         自由に集うことの出来る場所なのではないか。

                 あたかも家庭が

           不完全ながら暖かな休息所であるように

                   教会もまた

                愛ある場所なのだから

                 と師は説きました。

                 と、書かれています。               
                    
 

 場所や形にとらわれずに、祈りたいときには場所にはこだわらずに、その場所が 教会と 思い、そこで祈ればいいのだ、自然に中に生かされているのだから。と言っているようです。

 前回からの続き

一休禅師(一休さん)の挿話に、正月に「めでたいめでたい」と浮かれている人々に向かって「門松は冥途の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」と警告したのです。

新年を迎えることは、新しい年に向かっての希望に満ちた第一日であると同時に、死出の旅路への一歩でもあるのです。

愛と怨憎から遠く離れて、欲望から別離し、生と死を差別しない境地に到達するためには、この世の諸現象全てが「空」なるものであることに気が付く必要がある。そのことを「照見」したのが観音菩薩であったということです。

悟れる世界に到達した者から見れば、しょせん人間世界(此岸)のあらゆる苦しみは、人間がこの世に執着する迷いから来ているものとなります。

その迷いの世界(此岸)から悟りの世界(彼岸)へとすくいだそう、「度」(渡そう)とし、それができるものこそが、菩薩なのです。

*一切の苦厄は身・口・意からおこる。

私達人間を構成している身心の中で、心というのは厄介なものです。だからこそ仏教の教義においては、人間を構成する要素の中で、色(しき)を除いた四つ、受想行識は心の働きと言うことになっています。

仏教では、人間の行為を三種類に分けて、心口意(しんくい)の三業、と言っています。

身体でなす行為と口で言う行為は、外部に現れるから他人でも良く分かります。意業と呼ばれる心の働きだけは、本人以外の者にはなかなか判らないものです。

本音と建前がまったく違うなどと言われますが。確かに普段、私達が口に出して言っていることと、心の中で思っていることの間には開きがあることがあります。だからこそ古人は、「天知る 地知る おのが知る」などと言って、いつでも自分以外の何者かが、自分の心の中まで見通しているのだから、決して分からないなどと思ってはいけない、と警告しようとしたのでしょう。

いずれにしても、この「心」という存在は、人間にとって、又生き方にとって、極めて重要な問題と言えるでしょう。

金・物などに「執着心」が過大になると様々な問題を起こす原因となります。仏法でもこの世に執着する迷いから苦しみが始まると言っています。

人間は、上辺の言動ではなく心が最も大切なのです、と言っています。

前回の四苦八苦の続きです。 

残りの「四苦」は:愛別離苦・怨憎会苦・苦不得苦・五蘊盛苦があります。 

「愛別離苦」とは:愛するものと別れたり離れたりする苦しみ。(あいべつりく)

「怨憎会苦」とは:怨み・憎む人と出会う苦しみ。      (おんぞうえく)

「苦不得苦」とは         :求めるものが得られない苦しみ。     (くふとっく)

人間の欲望には際限がないから、永遠にこの苦しみから解放されることはない。

「五蘊盛苦」とは:色・受・想・行・識の五蘊による苦しみ。 (ごうんじょうく)

以上の七つの苦をまとめて、身心の五つの要素によって構成されている人間の存在そのものが苦しみなのであるとする五蘊盛苦が最後の出されてくるのです。

人間として母親の胎内から生まれてきた以上、「生」そのものを否定することは不可能です。

そうかといって自らの手で生命を断ち切ることが苦からの解放になる、というものではない。要は、現実に目をそむけずに、四苦八苦をあるがままに認めることなのです。これらの現実の姿を直視したうえで、さらに、これらの苦しみを超越した解放の世界である悟りをめざせ、と言っているのです。

人生は苦しみに満ちたものであり、四苦八苦の苦しみ、心と身体があるための苦しみ、「人生は四苦八苦なのだ」と見据えることから、この世をおおらかに生きてゆく智慧が見つかる、と言っているのです。

*愛と怨憎から離れられれば

自分の愛する対象でなければ、誰が何人が別れてゆこうと、それは自分にとって苦しみとはならない。自分にとっての愛の対象でない限り平然としていられる。

愛別離苦の苦しみの原因は、自分の側の愛にあるからです。同じことは、怨憎会苦や苦不得苦にも同じです。

自分が怨んだり憎んだりするから、それらの人達と会ったり話したり、一緒に暮らしたりするのが苦しいのです。恨みの憎しみも感じていない相手なら、何も苦しむことはないのです。欲しい欲しいと求めるから、手に入らないことが苦しみのなるのであって、欲しいと思わなければ、得られない苦しみはおきないのです。

生と死についても、生まれることは目出度いことであり、楽しいことですが、死ぬこと

は苦しいことであり悲しいことである。と思い込んでいるからこそ、老も病も苦しみと

なり、はては、それらの原因である生さえも苦しい、となる。

「老」は確かに死へ近づく過程でありますが、同時に、人間が成長する過程でもあるのです。   つづく

 「般若心経を読んで」 -10-のつづき

「一切苦厄」 (いっさいくやく)とは

仏教の開祖、釈迦によると、この世(此岸)に住む私達人間の一生には、苦しみが満ちており、それらを分類すると四苦八苦になる。これらを総称したのが文中の「一切苦厄」であります。

この苦は人間の力ではどうすることも出来ない根源的な「苦」なのです。

*「四苦八苦」とは:八苦の前半は四苦のことですから、合計八苦あるだけで、十二苦あるわけではない。
 
「四苦」とは:生・老・病・死(しょう・ろう・びょう・し)誰もが老化し病気になり死んでゆくのは苦しい。

「生」苦とは:生まれたことの苦しみ。

「老」苦とは:年老いる苦しみ。

「病」苦とは:病気になる苦しみ。

「死」苦とは:死ぬことの苦しみ。

死んで行くのは苦しい。ではなぜ老・病・死があるのか?それは生まれたからである。つまり、“生”こそが、その後の苦しみの出発点ということになります。   (つづく)

          「照見五蘊皆空 度一切苦厄」しょうけん ごうん かいくう ど いっさいくうやく)

読み下し文:五蘊皆空を照見して一切の苦厄を度す。

「五蘊」:二千五百年前の仏教の世界においては、人間を構成するものは「身体」と「心」の二つであり、その心の働きをさらに四つに分類して、計五種類としていた。

「色」が“形あるもの”ということで肉体の総称であり、「受想行識」(じゅそうぎょう

しき)というのが心の四つの働きです。

五蘊とは

肉体:色(しき) 形あるものすべて

精神(心):受(じゅ) 感覚

       想(そう) 記憶

       行(ぎょう) 意思

       識(しき) 知識

これらをまとめて{五蘊}と読んでいます。仏教では、このような五つの構成要素からなる人間の存在そのものが苦であると考えるのです。

いかにも独立した一個の存在のように思える個々の人間も、結局はこの五蘊の構成要素が、さまざまな条件の下に一時的に合成された姿であるから「空」であるという。これがこの経典の主張なのです。

「空」とは:“有るような無いような”ものこそが「空」。現代風には“実体無きこと”

といえるのではないでしょうか。

「照見」とは:私達は二つの眼を持っている。その眼は本当に物事をしっかり見ているかというと、はなはだ怪しい。物理的には確かに眼によってさまざまな物や現象を見ていま

すが、それは単に表面的に見ているに過ぎず、多くの場合、それらの本当の姿に気が付いていないのではないでしょうか。美形で背が高く頭も良い、と見定めて結婚したはずの女性が、妻としてはまったく不向きの人間だった、と後に気が付く。容姿や学歴、家柄といったものに眼を奪われて、内面的なものを見抜くことが出来なかったからでしょう。

同じことは夫の場合にも言えます。

だからこそ、あれほど好いて好かれて一緒になったはずの夫婦が、現代のように、何秒かに一組の割合で離婚することになるのです。人間というものは、きわめて不完全なものです。このように外見に惑わされるのも自然なことなのかもしれません。

しかし、すべての人々を救済しようとする観音菩薩は、そんな表面的な現象だけを見てはいない。「この世の真実」を見たのです。

お経の中の「照見」というのは、“この世の真実”つまり五蘊はすべてか空なのだ、と見定めたという意味なのです。照見とは単に現象的、表面的な面を見るのではなく、物事の本質を見極めることなのです。         つづく

*般若心経を読んで  

「行深般若波羅蜜多」(ぎょうしんはんにゃはらみた)パーラミターの音写。

迷いの世界(此岸)から悟りの世界(彼岸)へ到達するための実践行。波羅蜜とも呼ばれ全部で六種類あります。これを「六波羅蜜(ろくはらみつ)」と呼んでいます。

六波羅蜜とは

布施波羅蜜:他人に対して広く施しをする実践。 (ふせはらみつ)

持戒波羅蜜:日常生活の諸規則を守る実践。   (じかいはらみつ)

忍辱波羅蜜:じっと我慢する実践。       (にんにくはらみつ)

精進波羅蜜:あらゆる努力を惜しまない実践。  (しょうじんはらみつ)

禅定波羅蜜:現在していることに心を集中させる実践。(ぜんじょうはらみつ)

般若波羅蜜:智慧を理解し実践し、上記五つの実践を支える。(はんにゃはらみつ)

彼岸こそ「菩提(ぼだい)」すなわち悟りに到達するための実践行をなす期間として設定された、仏教徒のための修業期間であったとされています。

彼岸の入り・彼岸の中日・彼岸明けということが言われていますが、もともとは、中日をはさんだ六日間の間に六波羅蜜多の一つを実践するすると言うのが、彼岸の起源だったといわれています。

六波羅蜜を読んでみますと、現代における我々人間が忘れていることではないかと感じます。

仏教の世界のことではないように、ブッタの教えはより良い人生を送ることへの教えですね。何か一つでも六波羅蜜を実践してみませんか?

連日の非情な報道を見ると人間・親子の情はどうなってしまったのだろうと思いませんか。

同居の親の死を弔うどころか、そのまま白骨になるまで放置したり、袋に入れて押入れに放置したり、親が子供を子供が親を殺したりと人間としての情や親子の関係はどうなってしまったのでしょうか?あなたはどう思いますか?

周囲の人々や関係者の方の対応は?あまりにも自分主義のように思われます。現代の風潮でもある、自分のことだけで精一杯、他人の事なんかかまっていられないというような、薄情な風潮。これらは何時からこうなったのでしょうか。

気持ちも心もまったく余裕がなくなって、自分主義の世の中になってしまったせいでしょうね。

犬や猫だって自分の子供は命がけで守ります。人間はこれ以下になってしまったのでしょうか。

悲しいですね。

自分が現在この世に存在していることは、両親があり御先祖があったからです。感謝の気持を忘れないでください。

*般若心経を読んで  -8-

観音の慈悲について

観音さまは、「正しい智慧に目覚めた者」である仏陀の二大特徴である智慧と慈悲のうち「慈悲」を象徴化したものです。

「慈悲」とは、相手に喜びや楽しみを与え、同時に相手から悲しみや苦しみを取り除くことを意味している。

しかもその慈悲の対象は、決して個人の人間ではなく、生きるものすべてに対してであるということです。

観音の慈悲は、生き物を決して差別しない。

我々人間はどうでしょうか、「子供や孫がかわいい」「恋人を抱きしめたい」とか、「オレの・・・」 すべて自分を出発点としている発想です。だから、相手に裏切られたりすると、途端に愛が憎しみへと変わってしまうのです。

衆生がどんな姿、形をしていようが、富める者のだろうが貧しい者だろうが、そんなことには頓着しない。この世で悲しんだり、苦しんだりしている衆生を救済するのが目的なのです。

実はこの「衆生を救済する」という目的を持って説かれているのが「般若心経」なのです。

今日も酷暑の中、老体に鞭打って頑張っています。

皆さんも一度は観音様をお参りし、お願いしたことがあるでしょう。

観音菩薩は、さまざまな姿があります。今日は観音さまについて書きます。

*観音さま

「観自在菩薩」観音さまのことです。他に、観世音とも言われます。

観音は苦しみ、悩み、迷う者の祈りを一身に受け、すべての衆生を 救ってくれるのです。

観音さまは顔立ちが優しいことにお気づきでしょう。男でもなく女 でもなく「性」を超越しているのです。観音菩薩には、「自分だけ が悟りをめざすのではなく、同時に他の人々をも一緒に悟りへと導 いてゆく」と言う特徴があります。これを「自利利他円満」と言います。

観音さまには、いろいろな姿があります。一般に良く知られているのは、十一面観音・千手観音・馬頭観音などです。何故このようにいくつもの姿に変えるのか?観音の慈悲は、相手の姿や数に応じ て、 自由自在に救いの手を差し伸べる、ということを象徴している から なのです。

観音さまは慈悲の象徴です。「三人寄れば文殊の智慧」と言う言葉 がありますが、文殊とは文殊菩薩のことです。釈迦三尊という像が ありますが、釈迦の両脇に普賢菩薩・文殊菩薩という二人の菩薩が います。

菩薩とは、悟りをめざしている者すべての総称です。

観音さまの御利益というものは、病気を治してくれたり、商売繁盛 させてくれたり、頭が良くなる、といった、いわゆる現世利益が本当の目的ではないのです。

一応現世利益(苦しみ・悩み・迷い除いて)を与えた後、この迷いの世界を離れて悟りの世界を目指させようというのが、観音菩薩の本当の目的といわれています。

困ったことが起こったら観音さまにお願いしてみては如何でしょう。

皆さんも葬儀のときなどに聞き覚えがあると思いますが。蓮如上人の言葉で、人間の儚さを説いた言葉です。明日はわが身か、身につまされるような言葉です。

蓮如上人(浄土真宗)     「白骨の御文章」
      (蓮如上人の撰述した御文の五帖目、第16通「白骨」)

白骨の御文章

それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(そう)をつらつら観(かん)ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終(しちゅうじゅう)、幻(まぼろし)のごとくなる一期(いち
ご)なり。

されば、いまだ万歳(まんざい)の人身(にんじん)を受けたりといふことを聞かず。一生過ぎやすし。今に至りて誰(たれ)か百年の形体(ぎょうたい)を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日(あす)とも知らず。遅れ先だつ人は本(もと)の雫(しずく)末(すえ)の露よりも繁(しげ)しといへり。されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり。すでに無常の風来(きた)りぬれば、すなはち二つのまなこたちまちに閉ぢ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて桃李(とうり)のよそほひを失ひぬるときは、六親眷属(ろくしんけんぞく)集まりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐(かい)あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外に送りて夜半(よわ)の煙(けぶり)となしはてぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あはれといふもなかなかおろかなり。されば、人間のはかなきことは老少不定(ろうしょうふじょう)のさかひなれば、誰(たれ)の人も早く後生(ごしょう)の一大事を心にかけて、阿弥陀仏(あみだぶつ)を深く頼みまゐらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

意訳

人間のはかない人生をよくよく考えると、この世の中でおよそはかないものは、あっというまに迎える人生の最期である。いまだかって万年も生きたという話を聞かず、一生は早く過ぎるものである。現在でも百年を生きることは難しい。

自分が先になるか、人が先になるか。今日とも明日とも知れない命で、遅れる人早く亡くなる人は、木の葉の露、雫の数よりも多い。そうであるならば、朝元気であった者が、夕方には死んで骨になるかもしれない。   無常の風が吹いたら、たちまちのうちにまぶたは閉じ、呼吸も停止して、顔色がむなしく変って赤みを失う。そうなれば家族・親戚が集まって歎き悲しむが、蘇生効果はない。さてすべき事をしなければというわけで、遺体を野外に送り、夜中に火葬をして煙となれば、わずかに白骨のみが残るだけである。これはあわれというよりもおろかなことである。ではどうしたらよいかというと、人間のはかない命は老若の順とは限らないので、誰もが早い時期から死後の生の大事を心にかけ、阿弥陀仏に深くおすがりして、念仏すべきである。恐れ多いことよ。恐れ多いことよ。

すべて命のあるものは、この「宇宙の真理」によって生かされているのです。

生きているのではなく、生かされていることを忘れないでください。

皆さん、お盆はどうお過ごしでしたか。?年に一度のお盆、二度の彼岸会、亡くな

られた御先祖様 の方々を思っていただき、その霊を敬っていただきたいのです。

現在の自分は御両親が在り、その又ご先祖様が在ってこの世に存在するわけです。

この組合せが違っていたら現在の自分はこの世に存在しないわけです。

人生を幸せに生きるためには、御両親・ご先祖様を大切にし感謝の気持ちを忘れて

はいけま せん。

世間ではよく「仏様にお願いしてはいけない」などと言いますが、それは間違いで

す。何か悩んだり問題がおきたときは仏前・墓前で「何か良い智慧を与えてくださ

い」と言って、線香やお花をたむけてお願いしてみてください。何か見つかること

が多々ありますよ。

常に御両親、御先祖様に対して感謝の気持ちをお忘れなく・・・・・。

誰もが10代さかのぼると1024人の御先祖様が居るのです。

「仏説般若波羅蜜多心経」はお釈迦様が説いた「経」なのです。それが「般若波羅多」です。

つまり、お互い傷つけあい、迷い、苦しみ、悩むことの尽きない、私達が住むこの世(此岸)から、完全な悟りの世界、つまりあらゆる煩悩の火が消え去った静寂な世界(彼岸)へ行くために必要な実践行のことが書かれています。

釈迦の教えは、人間としていかに生きるべきかの教えなのです。

本文の意味について 

「仏説摩可般若波羅蜜多心経」 (ぶっせつまかはんにゃはらみたしんぎょう)

仏説=仏(釈迦)の説いた教え。

摩可=大きい・非常に・まことに意味深い、と言う意味。梵語のマーハーの音写。

般若=仏陀の会得した正しい智慧。

波羅蜜多=到彼岸(彼岸に至れる)。 梵語のパーラミターの音写。パーラム(彼岸)イター(到達する)の意味。

彼岸とは「悟りの世界」のことで、そこに到達した者こそがブッタとなることが出来るという意味。

「悟りの世界」とは“死すること生きるがごとき境地”を示す。思いわずらいいも消え、苦しみのない静かな世界。パーラミターというのは、悟りの世界に到達するためにしなければならない実践工(修行)のことです。この実践行は全部で六種類あり、それらを六波羅蜜(ろっぱらみつ)、六波羅蜜多(ろっぱらみった)という。

心経=心(梵語のフリダヤを翻訳したもの)  経(梵語スートラで、仏教的には、永遠に貫く教えの綱要、と言った意味。 最も肝要にしてつらぬく教えが「般若心経」であるという事になります。

「般若心経」は般若経の真髄と言われています。

玄奘三蔵が天竺から持ち帰った仏教経典群は、数ある仏教経典の中では「般若部」と言われる経典群が主でした。普通は“お経”というと、仏教聖典総てを含めたものと理解しがちですが、もともと仏教聖典には「経・律・論」と三種類あったそうです。

(きょう)=仏教の開祖である釈迦の教え。

(りつ) =僧が守るべき社会生活上の掟。

(ろん) =釈迦の教えに対する解釈や注釈。

以上の三つで、これをまとめて「三蔵経」とか「大蔵経」「一切経」とよんで、その数は五千部を超えると言われるほど多いそうです。

仏教は、紀元前五世紀ごろ、釈迦を開祖として出来た宗教ですが、これらの経典については、すべてのものが一度に出来たものではなく、数百年もかかって徐々に現在の形にまとめられてきたといいます。紀元前後ごろになり、仏教の中にも大きく二つの流れが出てきて、それまでの仏教の立場は、どちらかと言うと出家したお坊さん中心のものであった、教義にも消極的・虚無的な解釈をしていたのです。これらを小乗仏教と名づけて批判するという形で大乗仏教がおこったのです。

その中で最初の大乗経典として出来たのが「般若経」で、そして、それを初めて中国語に訳したのが玄奘三蔵だったというわけです。「般若経」は、それ自体、膨大な経典群でしたが、それらの精髄を取り出し、まとめたのが「般若心経」なのだそうです。

経典は、古代インドの雅語であるサンスクリット語(梵語ともよばれる)と、一種俗語のパーリ語でした。そしてパーリ語の聖典が、インドから南方にある国々に伝えられて上座仏教(小乗仏教)の聖典となったのです。一方、梵語の聖典は大乗仏教、北方仏教の聖典とされ、これらは、主にインドより北の方へ、中国語やチベット語をはじめ、さまざまな国の言葉に翻訳されて、広められたと言います。

こうして、梵語から中国語に翻訳されて日本に伝えられたのが「般若心経」なのです。

「般若心経」は私達に何を語りかけようとしているのでしょうか。「般若心経」世界は広大・深遠という言葉が無意味なほど広く、深い世界です。

たった二六二文字のお経は、私達をさまざまな悩み・迷いから救ってくれるのです。

「なにものにもとらわれず、あるがままの姿で生きて行く素晴らしさ」を会得できるのです。

今を生きる私達にとって、絶対的事実である「死}と言う問題にも、一つの回答を与えてくれる事 でしょう。あなたも「般若心経」を紐解いてみませんか。

毎日を苦しみ・悩み・迷いながら、心のふれあいもままならず、個性を埋没させて生きている。

そんな現代人のために、“おおらかに生きるための知恵と方法論”が見つけられる教本がこの般若心経なのです。

この世に人間として生を受け、成長するにしたがい、我々の一人ひとりが、何かを成し遂げようと念願しながらも、知らぬ間に老いてゆくのが人生の姿なのです。

人間としてせっかく生まれさせてもらったのですから、せめてこの世に生きている間に、自分が生きていることの本当の意味を考えて見ましょう。

『般若心経』は現代に生きる途を教えてくれる。

お経というと葬儀や回忌供養のときにだけ、と思っている人が大半ですが。実は、お経は現世に於ける生きる指針を示している教えなのです。たった262文字の中には、計り知れない程の深い人生指針が凝縮されているのです。

三蔵法師がインドから持ち帰り中国語に訳したものです。三蔵法師は「玄奘三蔵」と呼ばれた実在の人物。三蔵法師と言う名前を聞くと、孫悟空たちと一緒に、天竺(インド)までお経を受取りに行った中国のお坊さん。と皆さんが思い、知っていると思います。

「西遊記」はこの大旅行を記録したものです。

 花山 勝友著 「絵で読む般若心経」 ㈱日本実業出版社版より

何回となく般若心経を読んでいますが、毎回新しい発見があります。今回から般若心経を読んだ感想を書きたいと思います。般若心経の本は数冊読んでいますが、誰にでも分かりやすく記載されているこの著を元に御紹介します。

正式には「仏説摩訶般若波羅蜜多心経」と言います。「仏」とはお釈迦様のことです。そのお釈迦様が「説」いた「経」なのです。それが「般若波羅蜜多」心経です。

お互い傷つけあい、迷い、苦しみ、悩むことの尽きない私達の住むこの世(此岸(しがんから、完全な悟りの世界、すなわち、あらゆる煩悩の火が消え去った静寂な世界(彼岸)へ行くために必要な実践行のことが書かれている経なのです。「摩訶」とは、人知も及ばない意味深い教えだと強調した言葉です。

誰も、心の中に傷を持っていたり、悩みを持っているものです、それはこの世に生きている限りは、決してなくならない。ですから、この世に生きている間に「静寂な安らぎの境地」に到達すればよいのです。その知恵と実践論が書かれているのが「般若心経」なのです。

30年来の友人が、定年して第二の職場に付、5年間活動してきましたが、この六月一杯で退職となります。わざわざ東京から挨拶に来ていただきましたが、何故か寂しい気分です。

本人は、まだまだ元気でやる気十分なのですが。第三の職場の話もあるようですが、今まで一生懸命働いてきたのですから、この辺でゆっくり奥様と老後を過ごすことが出来れば良いと思いますが、現在の日本の社会保障の状況では、そうも出来ないのが現状です。

寂しい国ですね。私は自営ですので定年はありませんが、やはり先々が心配です。経済面や体調面、何時どうなってもおかしくない年齢です。毎日を無事に過ごせることに感謝しながら、前向きに生きて行くように努力して活きたいと思います。

人生、悔いなき生き方などは出来ないと思いますが、出来るだけ少なくして行こうと思います。

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