生きる喜びの発見「衣珠の喩」

「衣珠の喩」の中のお話。 
孫に与える”記別”のやり方。私と同じ考えです。面白いですね。私は子供に学校の成績が上がらなくとも、「勉強しなさい」とは言ったことがありません。作者もこの所は同じです。未知の世界を人々に納得をさせるには、緻密な理論で語るよりも、神話や伝説や比喩のほうがわかりやすい事実を、釈尊をはじめ、古代インド人はよく心得ていました。
衣の裏の宝に気づかず、零落した男。
衣の裏に隠された受記を気が付かず零落したのは、釈迦が「誰でも仏になれる」という教えを忘れていたからと解釈します。
現代のサラリーマン社会でも、課長や部長ラインを羅漢果(羅漢の位置)と考え、そこへ達するまでは、一応の努力はするものの、そこに到達したが最後、できるだけ事故が無いようにと、保身にきゅうきゅうとするなら、これも”声聞根性”です。
「縁」の教えに目覚めた舎利子の歓喜
釈尊の教えに、疑心と反発の塊だった彼が、聴聞を重ねるうちに、かたくなな信念もだんだんほぐれていくのです。彼は、初めて聞いた因縁の法(因果律)が理解されるにつれて、自分の中にある仏となるべき因(可能性)に目覚めると、釈迦の説く「縁」(契機)の大切さが、面白いほど会得されてまいります。
舎利子が言う「真の阿羅漢」は、先の小乗の声聞が達する最高位ではなく、大乗阿羅漢です。前者は自分だけの解脱に満足して、そこに止まるのですが、後者は自利と共に、利他の解説をはかるところに大きな差があります。小乗の羅漢が願う涅槃(ねはん)とは、煩悩を滅することでした。大乗の涅槃とは、仏となることです。涅槃の原語は火を吹き消すこと・吹き消した状態の意味です。火とは煩悩の火のことです。煩悩の火をおさめて、知恵が完成するさとりの境地が涅槃です。身も心も安らぐ仏と成るのが大乗のいう涅槃です。釈尊の死を涅槃というのは、釈尊が生前と死後とを通じて、永遠に成仏されている事実を讃えた表現と考えられます。


 


 

 

お問合せ・ご相談 

お電話でのお問合せ・ご相談はこちら
090-8846-4589

担当者:ライフアドバイザー
あかおぎ ひろし

人は誰も幸せになるために生まれてきたのです。
自分や家族のいろいろなお悩みの相談を受けています。
汝、悩むことなかれ。どんな人でも悩みの無い人は居ません。
早く心と気持ちを軽くして、前を向いて生きて行きましょう。
多くの方が心と気持ちを軽くして幸せになっています。
どんなことでもご一報ください、無料で相談させて頂いています。