千 玄室さんの言葉。 

今朝のサンケイ新聞のコラム「一服どうぞ」に裏千家前家元「千 玄室」さんの

「他人に手差し伸べる器量」が載っていましたので原文のまま掲載します。

地震大国日本といわれ、活火山も多い列島では、しばしば地震が起こる。そして、

過去に例を見ない大雨などもあり、天災は恐ろしい。単に天災のみならずそこに人

災と呼べるようなことが入ってくることもある。凄しい被害だと「どうしてこんな

ことに」と異常気象を嘆く、何かの祟りか、神の怒りに触れたかと思う方もおられ

る。

陰陽五行の教えである易学は中国で成立した。いろいろな災害がある度、この陰陽

によって占われた。陰は月で,陽は太陽である。この世の全ては陰と陽の対称であ

り、木火土金水の五行で構成され、万物が動いているといわれる。雨や風による天

災は恐ろしく、色々なところで被害があるが、どこか人ごとのように思い、自分の

所ではなく良かったと呟くのは己だけではないだろう。

しかし、人々は天災や人災の起こる毎に他の人の為に救助に駆け付ける。情の心を

自然に発揮するのである。タイで13人の少年とコーチが困難だと思われた洞窟から

救助された。さすが仏教の国、僧侶が皆さんと一緒に祈りを捧げている映像がTVに

映し出された。ともに合掌し、無事を祈る姿は胸を打った。洋の東西を問わず、あ

らゆる災難に人々は救いの手を差し伸べるとともに神仏に祈る。

東洋思想の特質は、西洋のように、アイデアリステイック(非現実主義)、リアステ

イック(現実主義)の2つに分けない。即ち、主観と客観をきっちり分けず、主観と

客観の統一を図る。客観を経て深遠なる主観に到達するのが東洋である。

例えば、祈るという行為は、主観的で、現実にその意が通じると考え、人なら誰で

も特別悪い事が起こらないように祈る。悪を払い、善即ち良い方向に向かうように

と。災害時には知らぬ人々の為に祈るのである。

昔あるところの他人からは「けち」と悪評のある人が大雨で近隣の町が水浸かりに

なった時、救助の品を買い、被害者に配りに行った。それまでケチがいい格好を見

せているとと悪口を言われた。聞い

た家人が本人に伝えたところ、「人間はどんなに悪く言われても、いざという時に

本当の心を以って実行すれば今どうのこうのと言われても後に分かってもらえる」

と言ったとの話がある。

神仏の教えは正しく見ることの大切さも教示している。八正道という教え、それは

人間の生きる上において正しい生き方を教示したものである。私は禅の師から八正

道とともに無功徳を教わった。梁の武帝が達磨大師に「自分は色々な良いことをし

たがそれに対しての見返りは」と尋ねたら「並に無功徳」=「自分が良いことを吹

聴してしまったらしまいだよ」と言ったそうだ。

慈善をするのは当たり前のこと。キリストは誰にでも手を差し伸べなさいと教えら

れた。右の頬を叩かれたら左の頬を。右の手でなしたこと左の手に知らせることな

かれとも。私たちは生きるために必死に毎日を過ごすが、そうした中でも何か他の

人に対して手を差し伸べる器量を持つことが必要だと、しみじみ思う今日この頃で

ある。

というコラムでした。

少年(中2)が殺人未遂。

昨日19日新聞配達の女性が刃物で刺された事件で中2の少年が逮捕されました。驚

きですね。

普段の生活の中でのイライラが募って誰でもいいから刺したかった。と言っている

そうですが、恐ろしい事件ですね。次第に年齢低下の事件が多発しています。

あなたは、この事件をどう思いますか?現代は社会的にイライラが募る時代です

が、それを相談したりする親しい友人や先生が居ないのが現状です。ほとんどは親

の責任です。親が子供の状況をしっかり観察していれば防げる問題です。忙しく働

くのはいいですが、もっと、家庭をかえりみて子供をしっかり指導してほしいもの

です。

前にも書きましたが、忙しいという字は心を亡くすと書きます。

お盆とは?

今日は月遅れお盆の終わりの日ですネ。

お盆とは仏教用語の盂蘭盆会(うらぼんえ)を略した言葉です。8月13日から16日

までが月遅れのお盆と言われています。

お盆の入り13日には迎え火を焚き、16日には送り火を焚く習慣があります。

迎え火とは、ご先祖様の霊が帰ってくると言われており迎え火はその目印とするも

のです。

送り火とは、御先祖様の霊があの世へ戻って行くのを見送るためのものです。

顔を見る。

あなたは自分の顔を鏡に映してよく観察することがありますか?

人間の顔は人それぞれ違いますが、よくその人の心情や心が顔に現れると言います

が、これは本当のようですね。

今までいろいろな人との出会いがありましたが、おおかた相手の方の顔を良く観察

すると性格や心配事があるな、とかチョッと病気があるかな、歓迎されていない

な、とかが分かります。

自分の顔を鏡で見ると、頭へ来た時、、心配事がある時、悩んでいる時、身体が病

んでいる時、などの顔の違いが分かります。一度自分の顔を観察してみてくださ

い。

私は相手の家を訪問した時、奥様の顔をじっと観察します。奥様の顔や態度で、自

分が歓迎されているか歓迎されていないかを判断しています。

顔は自分を映す代表的なものです。常に柔和な顔でいられるよう普段の生活に気を

付けましょう。

観音経の教え-6

七難・三毒・五欲・二求・拝むについて

*七難とは、火難・水難・羅刹難・刀杖難・鬼難・枷鎖難・怨賊難。

これらの苦難をどう受け止めるのか,いったい苦難の正体とは何なのか?

内なる苦難と外なる苦難と分ける人も良くいますが、苦難とは如意であるとおも 

思う。

不幸即幸福、幸福即不幸。どう受け止めるかによって鬼にもなれば蛇にもなる。も

ちろん観音にもなります。要は観音の心を持ち合わせていれば、すべてが解決でき

るということです。

*三毒とは、貪・瞋・痴。

*五欲とは、財欲・色欲・食欲・名誉欲・睡眠欲。

 三毒・五欲をコントロールする。

我々には、いろいろな欲がある。欲があるから向上する。だから欲自体は悪いこと

ではない。欲にとらわれるから害が生ずるのです。

ポルノ時代・フリーセックスの時代、どっちを向いても淫欲だらけ。女性週刊誌・

婦人雑誌・はては少女雑誌まで露骨なセックス記事が満載されており、身体だけは

一人前の少女たちを刺激する。

性欲はあってしかるべき、生命を生み出す所作であって、誰にでもあるものです。

だからどうコントロールするかの問題です。

今の日本を振り返ってみると、宗教的なものは何もない。ただ欲望をあおり立てて

それが商業主義と結びついて汚していくのである。

文化だ、芸術だ、ヘチマだと言っても、淫欲がないことには何一つ発展しない。

生々発展して行くためには、絶対必要な事なのである。

ここで注意しなくてはいけないのは、欲を絶つ、ことではなく、「離るる」となっ

ていることである。瞋も離るる、痴も離るる、愚痴も離るる、決して絶つとは表現

しない。

つまり善用すれば素晴らしいものになるぞというのが離るるということで、これが

大乗仏教の妙味であります。

 煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)

我々には淫欲があるから、人類が生々発展する。まさに宇宙を感じるのです。

善用するにはどうしたら良いか。

 「饒益する所多し」(にょうやくするところおおし)の饒益とは、律するという

こと。民衆が常に

観世音菩薩に念じていれば、身を律することができ、五欲をコントロールして善用

することが出来 ますよ、と言っているのです。

観音経の教え-5

〇煩悩の火を消し愛欲の海を泳ぐ

*七難  火難・水難・羅刹難・刀杖難・鬼難・枷鎖難・怨賊難。の七つです。

このうち火難と水難が出て来ます。火難を除く観音の変化身とされている秋葉三尺

坊は火伏の大御所として有名です。この三尺坊のご利益とはいうのは、人間の煩悩

を消すことにあります。

善行に害毒をうながす三つの煩悩を三毒と言います。

「三毒」とは貧・瞋・痴(とん・じん・ち)がこれにあたります。貧とはむさぼ

り。瞋とは怒り。痴とは知恵の曇り。この三毒の火を消すことが出来れば充実した

毎日が送れるとする教えです。

観音経でいう火難とは、瞋であり心火です。釈尊いわく「瞋恚は功徳の林を焼く」

と言っています。

水難とは愛欲の難、愛欲の大海に溺れるのは人間である限り誰にでもあります。誰

にでもあるからといって溺れてはならないのです。

*七難とその正体の受け止め方

「魔がさした」という言葉があります。心の迷いから生じる悩み苦しみ、食人鬼と

いってもいいような、どうしようもない心の悩みこれが「羅刹鬼」です。

「仮使黒風其の船航を吹いて」とは心の中の暴風のことです。仏性を求めて人生の

大海を泳ぐ我々の前に突然の災害が訪れた時、どうしようもない心の悩みに負けて

しまう。これが羅刹鬼の国に飄堕するということです。

人生で一番難しいのは、自分に勝つことです。人に勝つことなどは簡単なことであ

ります。負けそうになっては這い上がり、また負けそうになっては這い上がる。

我々誰でもがそうして生きているのです。

我々は本当に自由なのでしょうか、何一つ束縛もないだろうか、何一つとらわれも

ないだろうか?

人間の持つ所有欲は自由を束縛する。土地を手に入れれば土地に縛られ、家を買え

ば家に縛られる。地位を手に入れれば地位に縛られ、金を手に入れれば金に縛られ

る。命があれば命に縛られる。二重にも三重にも縛られ、身動きの取れない生活を

送る。これで本当の自由と言えるだろうか。

人間は一切の所有権を捨てることは出来ない。物を捨てることは出来ても心の所有

までも捨てることは出来ない。金がなければないなりの束縛、地位も名誉もなけれ

ば、ないための束縛。

我欲と言ってもいい。我欲の衣を七重八重に着込んだ我々の生は不自由この上な

い。この衣を脱がない限り本当の自分、宇宙の真理真実に出会うことは出来ない。

次回に続く

観音経の教えー4

*一心称名。・・・・一心に観世音菩薩の名を唱える。

釈迦入滅後、弥勒菩薩がこの世に現れるまで五十六億七千万年という気の遠くなる

ような無仏の時代に、庶民を救済する地蔵菩薩。その活動は六道全てに及びます。

「観世音菩薩普門品」の普門とは、あまねく門を開く、つまり表からでも裏からで

も、縦からでも横からでも、どこからでも入れる。どんな悩みにでも、誰の悩みに

でも、どこからでも受け付けてくれる。という意味です。

仏に手を合わせるということは、我々が思い描く理想の世界、心理真実、忙しさの

為に忘れているもう一人の自分と、仏像を通じて対面することです。

自分が自分で、自分の本物を偶像を通して確認する行為。ということは、お詣りを

するとは神仏を通じて自己確認をする世界であると言えます。するとここに自分を

叱咤激励し、勇気を持つことができる。だからお詣りは、一心不乱にやるべきであ

り、一心称名がそこに生きる。

念ずれば通ず、という言葉がありますが、まさしくその通り、ここにお参りの世界

があります。

観音経の教えー3

*音波をキャッチする観音様

「一心称名」一心に声を立てて念ずることである。一心に念ずることにより観音様と一体に

れる。

一体になれるということは、無我になることである。他の事は何もない一切の計らいもなく、

だ頭の中は観音様だらけ、といった状態である。

「百千萬億」の庶民がもろもろの苦悩を受けた時、観音菩薩の名を一心に称えたら観音は

れを聞き分けて、皆のその苦しみから解放されるようにするからです。

「南無観世音菩薩」の南無とは「依るべきものに帰る」という意味です。

「観音開き」という言葉がありますが、戸が真ん中から両側に開く方式です。両方に開く

と、中は開けっぴろげとなりどこからでも自由に入れます。

仏像を祀る厨子のほとんどは観音開きです。観音様は、開放的な仏さまでであるからで

す。

*観音様の気配り

心を配ると書いて心配。普通、心配するというと、あれこれと気がかりになる。と言うが、

の意味は相手の身になって心を配るということです。

*即時即効の現世利益 

世の中には摩訶不思議なことがあるもので、存在していることだけは紛れもない事実で

これを学問や科学で立証できないからと言って、信じようとしない現代人にもう一歩踏

み込んで考えてもらいたいことは、一心になることに依って発散するエネルギーの力、精

神力を集中した時に起こる不思議な現象、これは今、科学の死角点にあります。

一念岩をも砕く、で、ひたすら一心になる熱意、それに伴う行動はいつの世においても岩

も砕くほどの力を持つ、ということではないでしょうか。

観音経の教え-2

*観音様と同居する。

多くの在家の人達は、自分の中の観音様に気付いていない。

なぜ気が付かないのか、とうと宇宙心理の存在を、自我というコ

ロモで七重八重に包み込み、全く見えなくしまっているからである。

その分厚い衣をかなぐり捨てて、宇宙と一体感に目覚めるために

宗教者は、宗教的修行をする。

では一般的な在家の人々が、どうやって心理に目覚めることができ

るかといえば、とにかく一生懸命生きることである。それぞれの人生

の道を極めたとき、悟りと似た人生の核を手に入れるのである。

つまり、自分に合った一番大切な一筋の道を行じて行く、この精神

を保持していくところに本来の命に目覚めることができるのである。

と瑞法師は言っています。

*観音様と対面する

「南無観世音菩薩」観音像を拝むと、これは忘れかけていたもう一

人の自分、かけがえのない自分と対面する事なのです。

本物の世界と現在の娑婆世界、本物の自分と自我にとじこもる自

分、この二つの間の交を取り持つ電話交換手のようなもの、それが

観音様です。

坐禅の坐の字という字は、人が二人土の上に居る。一人の人間

が、現在あくせくと生きている人間ならば、もう一人の人間は、あく

せく生きながらも、ああもしたい、ああもなりたい、こうもしたいと理

想として追求する人間であります。

この二人の人間が土の上に立っている。これが我々人間の姿なの

です。

観音様をお詣りするということは、現実に生きていると言う自分が、

もう一人の理想としてる自分を拝むことです。

観音巡礼というのは、本物の自分を再発見するための旅。自己確

認の旅であると言えます。

観音経の教えー1

「観音経を読む」雲輪 瑞法著より。

まず、お経と言うと線香臭い・坊さんが唱える訳の分から

ない言葉と思う方が大半でしょう。しかし、お教文とは、

人が生きて行く事に対する大切な教えを説いているものな

のです。決して無碍に出来ない大切な教えなのです。

「観音経を読む」この著書を読んで自分が感じたことを記

します。

良くお坊さんが読む「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十

五」とは法華経の中の第二十五番目に記載されているお経

です。通常は「観音経」と言われている経文です。

このお経は人間自覚のための経文であります。

*この世で第一番に難儀、難しいのは、自分自身の限りなく

揺れ動く心、どうしうもない、この自分自身との対決で無

かろうか。

人間の心とは、常にころころと変化する。だから「こころ」

と言うのであろうか。

捉えどころなき、つかみどころなきものである。先刻の自分

と、只今の自分、もろん、一瞬一秒の怠りもなくこの肉体

は変化する。が心も又限りなき移ろいさいゆくのである。

自分の寿命(死)を考える。

私は当年取って77才です。これから先何年生きられるか?時々考えます。

皆さんに若いですね('_')などとよく言われます。健康診断は毎年しています。血

圧・血糖値・コルステロール等、何も再検査と言われたことはありません。掛かり

付けの担当医も首をひねっています。たばこは吸う酒は飲む(毎晩晩酌します)

し、おかしいと言っています。

私は入れ歯は一本もありません(毎日食後には歯磨きします)。同年輩の友人達は

会えば病気や薬の話が良く出ます。姿勢も後ろから見ると老人姿勢です。私は姿勢

には注意しています。まっすぐ立って背筋を伸ばして歩くことを心掛けています。

若いと言われる由縁は姿勢にあるのかと思います。

しかし、77才です。あと何年元気でいられるか?考えます。

人間は寿命と言いますが、私は耐用年数だと思っています。人間以外では、どんな

物でも耐用年数があります。どんな良いものでも必要とされなければ捨てられた

解体されます。人間だって同じではないかと思っています。この世の中で必要とさ

れ無くなれば耐用年数終了です。その耐用年数が何時になるかが心配です。未だに

元気で居られるのは、まだ世の中に必要とされているのかな、と思っています。

自利利他の精神でこれからも皆さんのお役に立ちたいと思っています。

未だに日本全国自家用車で出かけています。今月は新潟県糸魚川まで行く予定で

す。これからも耐用年数がくるまで頑張りまーす。(^^)/

感心なお母さん。

先日相談に来訪された奥さんは感心なお母さんです。なかなか誰にも出来そうもな

ことをしています。

自分の従兄弟の子を、乳飲み子からこの春高校を卒業して、現在も自分の子供が3人

居るのに面倒を見ています。実父は東京に居るそうですが、高校を卒業して父親と

住む予定で東京に行ったのですが1か月で帰ってきてしまったとの事です。

やっぱり育ての親が良いのでしょうね。「大変なんですよ」と言いながら笑顔で話

すこのお母さんはビックママです。年齢は42才のお母さんです。偉いですね。

たとえ血の繋がりはあっても出来るものではありません。お母さんの鏡ですね。

「人情」

今日、菜園に行くと近所の小母さんが犬の散歩をしていました。自分の菜園に立ち

寄って野菜談義をしてお帰りになりました。しばらくすると又来園され、手には冷

たお茶・リポビタン・チョコレートを持って差し入れに来てくれました。嬉しい

ですね。丁寧にお礼を言って頂戴しました。家内と「なかなか出来ることじゃない

ね」と話しました。

「人情」古い言葉かもしれませんが脈々と生きていました。帰りに菜園で収穫した

キャベツを届け丁寧にお礼を言って帰ってきました。気持ちいいですね(^o^)/

因果応報。

皆さんはこの言葉を知っていますか?

因果応報

(仏) 前世における行為の結果として現在における幸不幸があり、現世における行

為の結果として来世における幸不幸が生じること。

時代が変わっても人間の本質は変わていません。よく「時代が違う」と言う言葉を

聞きますが、人間そのものは昔と一切変わっていません。何回か書きましたが、あ

なたは現代に生きているということは両親・ご先祖があってのことです。

あなたを十代遡ると1024人のご先祖様が居るのです。その人達のDNAをあなたは

引き継いでいるのです。

近所の独居老人の来訪。

近所の市営アパートにお住いの70才になるご婦人が突然来訪しました。以前に1回

近所の知り合いの夫人と一緒に来られたことがありました。家内が公園を散歩中に

知り合いになったそうです。お話を聞くと、1月に主人を亡くしその後歩行中に足

を骨折し、やっと歩けるようになったとの事でした。自宅療養中にアパートの部屋

から公園を眺めていたそうです。一人で毎日家の中でテレビを見ながら過ごしてい

たそうですが、話し相手もなく、いろいろ考えてしまって鬱病になりそうで誰かと

話がしたいと急に家内の事を思い出して来られたそうです。

そんな寂しい時は遠慮せずに何時でもお出でくださいと言ってあげると、突然テー

ブルにうつ伏し号泣してしまいました。優しい言葉を他人が掛けてくれたことに突

然込みあげてきたそうです。落ち着いてからいろいろお話を聞かせて頂きました。

栃木県出身で近くに誰も知り合いは居ないし、主人に亡くなられて、急に一人に

なってしまった寂しさに耐えられなくなってしまったそうです。

今、世の中が抱えている独居老人問題です。良くマスコミで報道されています独居

老人の忘れられた「死」です。この問題を地で行くような例です。

その後、私の菜園に案内しキャベツや三つ葉、キヌサヤなどを収穫し持たせてあげ

ました。菜園に着くと「空気が美味しく気分が晴れる」と言って元気を取り戻した

ような感じです。帰りに「また来てもいいですか?」と言ったので、何時でも寂し

くなったらおいでなさい。と言ってあげました。嬉しそうに野菜を持ってお帰りに

なりました。

これでまた、一人救うことができたような気持ちになりました。この老人問題は周

辺の人皆で考えなくてはならない問題です。

「忙しい」と言う字は心を亡くすと書きます。

仕事仲間の研究会が湯西川温泉で開催されました。ロビーでコーヒーを飲みながら

の時間に皆さん忙しい話をされています。自分から奥さんに何処かへ行こうか?と

誘ったことがない友人が居ます。忙しくてその気になれないとの話でしたので、話

をさせて頂きました。「忙しい」という字は「心を亡くす」と書きます。忙しいと

人間本来の心を亡くします。イライラしたりクシャクシャしたりして自分の心が定

まらないのです。ですから、たまには現実から離れて、ゆっくりした時間の中で本

来の自分を見つめ直すことも大切ではないか。と話しました。本人も納得した様子

で、今度そのような時間を作りたいと言っていました。

人間だれしも日頃忙しいですが、時間を作ってゆったりした気分で自分を見つめ直

す事も大切ではないでしょうか。

「感」

自分の親しい人々の状況について私の感が良く当たります。数日前のお世話になっ

た先輩、家を訪ねたのですが留守でしたが何となく入院しているのではないかと思

い家族の方に電話したところ、やはり入院していました。早速お見舞いに行きまし

たが本人は誰にも言わずにいたので見舞客は私が一番乗りでした。又、今日はマ

ミーが何処かへ行きたいと言うので車を当てもなく走らせました。数日前から行き

たいと思っていた兄の墓参りをと思い、急遽埼玉県の飯能市に向かいました。霊園

に着いたのが11時半、丁度2時間です。無事お花と線香を手向けて墓参りを終えて

兄の自宅へ向かいましたが留守でした。何となく、もしかしたら義理姉は入院して

いるのではないかと思い、兄の娘に電話したところ案の定入院していました。早速

病院の場所を聞き見舞って来ました。というように何んとなくの感が当たります。

自分でもビックリしています。

自分の問題の解決法は。

私の師匠の残した言葉(法華経の知恵)にある教えを記載します。

仏教のほとんどの宗派では、お経文をあげる前に次のような開経偈(かいきょう

げ)を読み上げます。「無上甚深微妙の法は、百千萬劫にも遭遇たてまつること難

し。我今見聞し受持することを得たり。願わくは如来の第一義を解せん」

これは大変すばらしいことです。「無上甚深微妙の法は、百千萬劫にも遭遇たてま

つること難し」と言って、人間は何千回、何万回も生まれ変わって、ようやくこの

度、仏様と巡り会うことができたのだという事です。お経、つまり教えを見たり聞

いたりすることが、今やっとできるようになったということです。

「如来の第一義を解せん」の如来とはお釈迦様の事です。「第一義を解せん」と

は、この世の中の仕組み、つまりお経のことです。それを身につけたいと願うこと

なのです。だから、日々お経をあげていると、一つ一つ自分のものになっていきま

す。するとお寺さんの説法などを聞いたとき「これは、お経のこの所を言っている

のだな」と言うようにわかってきて、自分でお経を解釈出来るようになってきま

す。すると、お釈迦様の教えに照らして、なんでも善意に受け取ることができます。

人間は、目の前に起こったこと、いやな事でもなんでも「これは私にとって、丁度

いいんだ」と受け止めるのが正解です。そのような受け止め方とは、「善意」です

から、結果として素晴らしいものが出て来ます。

何か問題が起こっても「これは自分に相応しい問題なんだ。よし、どうやって解決

してやろうか」という前向きのの姿勢、「善意」に受け止めるとなんでも解決出来

るのです。なぜなら、あなたの人生ですから、あなたに解決できる問題しか出て来

ませんもの。皆さんいいですか。人生には自分で解決できない問題は決して現れま

せん。

「困ったなー」と思えば、困ったことにしかなりません。人間とは、そういうも

なのです。それがお経の中にあるこの世の仕組み、「第一義」、つまり「空」な

です。

怪我や事故を起こしやすい日。

午後来訪者があり話を聞きました。何んということはないのですが、車の事故をご

夫婦で同じ日に起こしてしまったそうです。幸い軽い事故だったので良かったので

すが・・と言っていました。

連休明けの13日(一白水星)だったそうです。事故やケガを起こしやすい日があり

ます。一白水星・六白金星・八白土星の日。自分の星が北(困難宮)・北東(鬼

門)の方位にある時は怪我や事故が発生しやすいと言われています。カレンダーを

見て毎日確認して行動してください。もちろん今年の五黄土星(北)・四緑木星

(南)は誰でもご注意を。五黄殺・暗剣殺の方位です。

不思議に該当する事が多いです。

弱肉強食の現実。

我が家には茶の間の目の前(1m程度)にメジロのためのミカンを置くところがあり

ます。又その先にはスズメやシジュウカラなどのエサ台を設置しています。

毎日ツガイで来るメジロは自然で綺麗で可愛いです。私がミカンを置くと間髪を入

れず直ぐ啄ばみに来ます。ところがこの数日間メジロが来ません。いつもメジロや

スズメがエサ台に来ると必ずヒヨドリが飛んできて小鳥を攻撃していました。自分

のテリトリーと決めて他の鳥が来ると追い出そうとしているようです。それでメジ

ロは来なくなったと思っていましたが、たまたま庭に出てみたところ踏み石の側に

メジロの頭が落ちているのを発見しました。頭は直ぐに木の下え埋めてあげました

が、これでメジロが来ない理由がわかりました。ツガイのどちらかがヒヨドリの犠

牲になったのです。可哀そうなことをしました。そして自然界における弱肉強食を

目の当りにしてショックを受けました。

人間界でも色々な面で弱肉強食のシーンがありますが、目につかないので感じるこ

とは少ないと思いますが、あまりいい感じはしませんね。互いに相手を尊敬しつつ

一緒に生きたいものです。

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担当者:ライフアドバイザー
あかおぎ ひろし

人は誰も幸せになるために生まれてきたのです。
自分や家族のいろいろなお悩みの相談を受けています。
汝、悩むことなかれ。どんな人でも悩みの無い人は居ません。
早く心と気持ちを軽くして、前を向いて生きて行きましょう。
多くの方が心と気持ちを軽くして幸せになっています。
どんなことでもご一報ください、無料で相談させて頂いています。