*徳不孤必有隣 (とくは こならず かならずりんあり)
                              自信を持ってやりとげよう  論語

この言葉は、徳のある人は孤立することはない、と言う意味です。

一生懸命学んだことや、苦労して身につけた技能が世間で評価されず、軽んじられるのはつらいものです。自分は間違っていないと思っても、評価されないことに焦るあまり、それまでの主義主張や信念を曲げて妥協してしまうこともあります。

でも、本当に正しいと信じるならば、妥協せずに努力を続けることが必要です。意思堅固に道を求め続けていれば、おのずから理解者は現れ、支持する人も出来ます。あなたは一人ではなく、支えてくれる人が必ずいます。

ただ自信を持って自分の信念のもとに生きてゆきましょう。

禅語 その10

「身心脱落」 (しんしんだつらく) 身心ともにさっぱりと  正法眼蔵(道元)

「脱落」は落ちこぼれとか、離脱する意味ではなく、一切のしがらみから脱

し、さっぱりした境地のことです。

道元の著「正法眼蔵」に、如浄禅師が「禅の修行には、焼香も礼拝も念仏

も懺悔も読経も不用。ただひたすら坐禅をすることが身心の脱落に通じ

る」と説いたと言います。

ひたすら坐禅し、身も心も一切の執着を離れた、自由で清々しい境地が

「身心脱落」なのです。欲しいもの方に入らない(求不得苦)、自分は他人

より損をしていると言った悩みは、他と比べる心と執着から生まれるもので

す。身心脱落とは、「わたしの身心」「他人の身心」という考え方を含め、一

切の執着から離れることを意味します。と説いています。

ここでは「執着心」について説いています。自分にだけ執着しているといろ

いろな問題が起こってきます。自分中心に物事を考えずに大きな心で捉え

ることが大切でしょう。

禅語 その9

「和光同塵」 わこう どうじん  慎みという美徳  老子

個性や自己主張をアピールして、自分を立派にみせることが現代流の生き方で、それが主流のようになっています。現代は少しでも他人よりすぐれ、自分の長所を磨き抜きん出ることが評価されているようです。

あからさまな自己主張の時代に失われゆくのが、謹みや謙虚さ、奥ゆかしさなどです。派手な光を放つことはないけど、いぶし銀のような深みのある人、ピリッと鋭い意見をさりげなく言えるような人は少なくなっています。

こんな時代だからこそ、見直したい言葉が「和光同塵」です。老子は「その光を和らげてその塵に同ず」と言いました。「和光」とは自分が勉学、修行によって得た道徳性や知性、才智の輝きを和らげ、顕(あらわ)にしないこと。「同塵」とは塵やゴミに汚れた現実世界に同化すること。聖人であっても、悟りを開いた禅師であっても、その学徳や才智を表面に出さず、俗塵の中にまみれて衆生済度をするという意味です。と記されています。

禅者のようにいかないまでも、私たちにも出来ることはあります。自分の行いを自慢せず、謙虚に奥ゆかしく、困った人や助けを必要としている人たちに、ささやかでも役に立つことをする。そんなところから始めてみましょう。

何か身につまされるような言葉「和光同塵」いい言葉ですね、私もそんなところから始めてみようと思います。

禅語 その8

*本来無一物 (ほんらい むいちもつ)    「何もない」ということ。

読んで字のごとく、人間は本来執着する一物もない、何も無い、一切空であり、絶対無であることを意味します。分別・相対的な観念を全くはさまない世界、一切のものから自由自在になった心境を言います。

この時代にこの心境になるには大変なことです。こんな心境に少しでも近づくには、何をすれば良いのか?「法」に従って「無」になることでしょう。悟りの心境でしょうね。

禅語 その7  苦しみを乗り越える

*寒時寒殺闍黎 (かんじは しゃりをかんさつし) 苦しみを受けとめる覚悟

難しい言葉ですが、闍黎(しゃり)とは僧の尊称だそうです。

「寒時寒殺闍黎 熱時熱殺闍黎」 (かんじは しゃりをかんさつし ねつじは しゃりをねつさつす)

という禅語です。

この「寒暑」は、寒さや暑さだけのことではなく、心の中の苦悩や煩悩も私達にとっての「寒暑」です。

苦しいとき、辛いとき、悲しいとき、その悩みを避けたり、一時逃れをするのは、寒いときに「寒い」と文句をいい、暑いときには「暑い」と愚痴るのと同じこと。
苦しいときこそ、その悩みを避けるのではなく、ありのままに受けとめる。
つらい事柄に「なりきる」ことによって、人は煩悩苦悩から解放されるという教えです。

辛い事をしっかり受けとめる勇気を持つことが、苦しみを乗り越えるためには必要です。

大変難しいことですが、いろいろと悩み多いこの時世において、これを乗り切るためには自分の現状をしっかり見て受けとめることが大切なのでしょう。八正道にある「正見」(しょうけん)の意味と同じではと私は思います。

*坐禅(ざぜん) 自分の心を見つめて静かに座る。

禅語について記載していますが、禅と言えば坐禅を思い浮かべますが、今回は坐禅について書きました。

坐禅の「坐」の字は土の上に人が向き合い、対話する形から成り立っています。対話するのは、自分ともう一人の別な自分、つまり心の中の自分、魂の自分です。

本来の自分と向き合って自問自答することこそが尊いのです。

自分を知ろうとするほど、嫌な思いをすることもあるかも知れません。でも、そうして人は強くなれるし、他人にも優しくなれるのです。と教えています。

又、座敷の「座」の字は「广」(まだれ)の中に坐と書きます。この、まだれは家・建物を意味します。よって「座敷」は家の中で敷物の上で向かい合って座ると言うことです。

皆さん、坐禅の経験はありますか。

たまには、一人静かに坐禅して自分を見つめることも大切かもしれません。

 *心無罫礙(しんむ けいげ)

私達がよく耳にする「般若心経」の一節である。「心無罫礙」とは、心のわだかまりがない

こと。私達は心配事があれば心配に心を捉われてしまい、悲しいことがあば、悲しみに心を

奪われてしまうようである。そしていつも心のどこかにひっかかりを作って、くよくよ考え

込んでいる。その心のさまたげを「罫礙」という言葉で表現している。

「罫」とは魚を捉える網のこと、「礙」とはさまたげを意味し、私達の心が網にひっかかっ

てもつれた状態、私達は心配や悲しみに心を奪われなければいいのだが、実際問題として不

可能である。生きている人間である以上悲しみ苦しみはつきまとう。何か心配事があるとそ

のことが頭から離れない。夜もおちおち眠れない。ひどい場合はノイローゼになったりする。

だから心の「こだわり」「わだかまり」を捨てるように般若心経は教えている。

悲しみは悲しみとして受け止める。苦しみは苦しみとして受け止める。それが、「心無罫礙」

の説くところである。

悲しみ、苦しみはだれでも受ける。受けた心のダメージをどのように処理 していくのかが問

題なのである。

自己の宗教心をしっかりと確立している人は、きっと立ち直りは速いと思う。

私達は物事に「こだわりつつ」「こだわらない」心を学ばなければならない。心に「わだか

まり」「こだわり」を持たないで生きることは大変難しいことです。

しかし、「わだかまりや」「こだわり」を持っているとすべてに疑心暗鬼となってしまう

「先入観」や「わだかまり」を出来るだけ持たないように生きることが大切でしょう 。

*鬱病(うつびょう)の話

ある先生の鬱病についての講演を聴いてきました。最近、若い人から中高年にまで多くの鬱病の患者が増えているといいます。現に公務員の中にも増加傾向の話を聞いています。 急に登庁しなくなり電話の連絡もつかなく困っているとの話です。

講演を聴いていると鬱には、いろいろな原因が重なり発生すると言います。人間は誰でも欝病の要素は満ち合わせているといいます。それが何らかの原因で出てきてしまうと言います。結局は、鬱病の根本的な原因は現代医学においても、はっきりと分からないのが 現状のようです。

病院では専門の先生が、直接患者と直面しカウンセリングを行い、薬を処方しているのが現状のようです。結局、長期にわたり治療するほかないようです。

私のところへも鬱病の相談は多いです。病院でのカウンセリングの内容を聞きますと、先ず「よく寝むれますか」「食事はどうですか」「気分はどうですか」などと日常の状況を聞かれるそうです。何も楽しい話は無いとのことです。

カウンセリングは、相手の心や気持を和らげることではないかと思いますが。

では、家では話も笑いもせず何もしないで部屋に閉じこもり、音楽やテレビを聞いたり見たりしてゴロゴロしている鬱の方が、私のところへ来られますと、ちゃんと話をしますし、笑顔も出ます。なぜなのか分かりません。訪ねてこられたときと、帰るときの顔付きがまったく違ってお帰りになります。このような方は先ず安心です。必ず近いうちに病から開放さ

れます。私自身もビックリしています。

今まで何人もの方が鬱病の相談に見えましたが、全員立ち治っています。私は私なりに、師より教えて頂いた話をするだけですが、この話は、鬱病になる原因を簡単に話すことなのです。現代の医学者や科学者は絶対信用しないような話ですが、師のところへは病院の先生や有名な病院の看護士さんたちが定期的に通って話を聞きに来ていました。

私のところに来て、急に快方に向かって治ってしまった患者さんに対して、最近は先生が疑問を持ち「何かしてきましたか」と聞くそうです。私は聞かれても「何もしていません」 と答えるように言っていますので患者さんはその通り答えているようです。

このことは、他の病気の方の場合も同じで必ず急に快方に向かってゆくと聞かれるそうです。「何かあるんではないか?」と先生方も思っているのではないでしょうか。実際に何度も先生から問われた人もおります。

人間は宇宙の中の自然の生き物ですから、宇宙の真理の中に生かされているのです。 その真理を知り、その教えに従って行動すれば良いわけで、何も難しいことはありません。

その教えに中に、さまざまな問題の原因が記されているので、それを教えてあげることによって問題は解決するのです。

まだまだ未熟な自分ですが、師の教えを伝えながら少しでも皆さんのために貢献できるようこれからも努力するつもりです。    いつでもお話を伺いますのでご遠慮なくどうぞ。

 禅語 その5

 *知足(たるをしる) 欲しがることをやめてみる 〔遺教経〕

「足るを知る」京都・竜安寺の「吾唯足知(われただたるをしる)」と書か

たつくばい が有名でしょう。

私達は欲望を無限にふくらましてはならない。これで充分、つまり「ごち

そうさま」と言える心のゆとりを持たねばならない。「吾唯知足」は、釈尊

が説かれた教えである。

「足ることを知る人は、心は穏やかであり、足ることを知らない人は」心は

いつも乱れている」と言われる。

心の平安を求めるのであれば、「吾唯知足」を是非とも理解しなければな

らない。

具体的には、「ごちそうさま」「もう充分」「もう結構です」の心であろう。食事

などでお腹がふくらんだら言えるが、欲しかったものが目の前に山積みに

なったとき、はたして可能かなとも思う。

「吾唯知足」は現代の日本人が理解出来にくい言葉である。理解出来にく

いがゆえに、耳を傾けなければならない。

「貧しい人」とは何も持ってない人ではなく、多くを持ちながら、まだまだ欲

しい、と満足できない人のことです。

足るを知り強欲にならないことが大切です。問題や悩みの根本は「欲」で

す。誰もが欲のない人はいませんが、自分の器に合った欲で満足するべ

きでしょう。

それには先ず、自分をよく見つめることです。相談者の中にも足るを知ら

ない人が結構いらっしゃいます。

「知足」いい言葉ですね。

千利休(せんのりきゅう)は、茶道の心得として、「家は漏らぬほど、食事

は飢えぬほどにて足る事也」と述べました。必要な分を必要なだけ用意

し、茶を点ててまず仏に供え、人に差しあげ、施し、最後に自分もいただ

く「利他」の精神がそのまま自分の幸せであるという。

「自利利他」の心が大切です。

人生を生きることも、商売をするにしても、役人でも、国家でも、すべての

人間が我欲を張らずに「自利利他」の精神で行っていけば争いや、問題

も起こさずにすむのでしょう。

禅語 その4

*夢   夢ははかないものか?  (金剛経)

仏教では「いろは歌」の「色は匂えど散りぬるを」(美しく色香漂う花

も、やがて散ってしまう)に表されるように、世の中全ての現象は、実

体のない仮の姿で、夢幻のように何ひとつとして同じ状態で続くもの

はないと言諸行無常の思想があります。

その実体のない仮の姿、仮の世を、私たちは真実だと思い、永遠続く

ものと思って執着していますが、それははかない夢幻、泡影のような

ものだと論するのが、次の言葉です。

一切有為法    如夢幻泡影    如露亦如雷     応作如是観(いっさいのういのほう) (むげんほうようのごとし) (つゆのごとしまたかみなりのごとし) (またかくのごとしかんをなすべし)

この世の一切の事象は、夢幻のようで、泡のようで、影のようだ。露の

ようで雷のようでもある。迷いの多い生活から目覚めるためにも、この

世のすべてを夢と知れ。

禅語としては、沢庵和尚(たくわんおしょう)の辞世の「夢」が有名で

す。沢庵は「夢」のを大書し、横に「是(ぜ)もまた夢、弥勒(みろく)

もまた夢、観音もまた夢、仏云く(いわく)、正に是(かく)のごとき観を

作(な)すべし」と書いた後、亡くなったといわれます。

つまり沢庵は、一切の事柄は夢であり、すべてに執着から脱却した状

態にあると言ったのです。沢庵はこの世の一切のものが仮の姿であ

ることを悟った境地で「夢」と書きました。

悟りの世界に行ったとき、人はもう儚い夢を見ることもなく、現象の仮

の姿に惑わされたり、酔いしれたりすることもないのでしょう。そんな

安らかな心境を、「夢」の一字に表したのかもしれません。と記されて

います。

沢庵和尚のような安らかな心境になるにはやはり、悟りの世界は死

後の世界なのですね。 

私たちは日頃から、この仮の状態の中で執着し迷い悩んでいるので

ね。仮の世界なのにものごとに執着するから問題が起こるのでしょ

う。

すべての事柄は諸行無常であることを、あらためて認識しました。

禅語 その3

*放下著(ほうげじゃく) 「投げ捨てて」自由になる。(六祖壇経)

無心になることは、難しいことです。修行者であっても「無心」の境地にはなかなか到達出来ないようです。無心になろう、無心になろうと思えば思うほど、心のモヤモヤが広がるようです。修行者であっても、少し道理がわかってくると、悟りの境地に迷うと言います。ましてや、私たち凡人が日々の悩みを捨て去るのは、とても難しいことです。でも、捨て去ろうと頑張るほど、悩みや辛さに絡みとられることもあります。

壁にぶつかったときこそ、あえて「放下著(投げ捨てる)」の気持で向き合っていきましょう。

と、記されています。難しいことですね。 (-_-;)

禅語 その2

*脚下照顧(きゃっかしょうこ)  わが身、わが心を見つめる。

文字どおり「自分の足下を良く見つめなさい」ということです。

足下を見ることは、わが身、わが心を見つめることでもあります。足は人間の体を支える根幹です。足下がぐらつくと、安心して立つことができません。身体が安定しないばかりでなく、心まで不安定になってしまいます。

足下がぐらつかないよう、土台を固めるには、常にわが身の行いを振り返ることです。いま思っていることを振り返り、毎日使っている言葉を顧みる。無意識のうちに他人を傷つけてしまう言葉の過ち、わだかまる恨みや怒りなど、自分の中にあるマイナス部分を認め、反省する気持を持つことです。
禅寺の玄関にはよく「脚下照顧」と書いた看板があります。これは「上がる前によく自分の足下を見なさい」という意味で、脱いだ履物をきちんとそろえましたか?という注意書きです。
しかしこの言葉は、たんに履物の脱ぎ方を注意しているわけではありません。「形は心の表れ」と言いますが、心が乱れていると、何ごともきれいに整えることが難しくなるものです。
玄関を見ればその家の状態がわかると言うほど、靴の脱ぎ方ひとつにも、心のあり方が見えると言われます。

心が余裕を失いそうなときこそ、立ち止まって足下を見つめたいものです。

ドキッとしますが、早く玄関に行ってみて下さい。皆さんいまから「脚下照顧」を実践してみては如何でしょうか。心が安定し余裕が出てくること請け合いです。

やはり人間の生き方の教えは仏語(禅語)にあるようです。身近な言葉で普段気付かないで使ったり聞いたりする言葉の多くは仏語(禅語)の言葉が多いようです。これから禅語の紹介をしてゆきたいと思います。

禅語その1

*日々是好日(にちにちこれこうじつ)  雲門禅師

私たちがよく目にしたり聞いたりする言葉です。これも禅の言葉です。

文字どおりに解釈すれば「毎日が平安で、無事である」の意味ですが、明日と言う日は二度とない。この一瞬を大事にせよ」ということを教え示した言葉が「日々是好日」なのです。

朝起きて寝るまで、今日という日はかけがえのない一日です。この一日を全身全霊で生きることができれば、それこそが「日々是好日」となるのです。

平々凡々、何事もさわりのない穏やかな状態だけが「日々是好日」ではありません。

好日は願って得られるものではなく、待ってかなえられるものでもない。私たち自身の生き方によって、日々の好日が得られるのです。と教えています。

なかなか今日一日を全身全霊で生きることは、我々凡人にとっては難しいことですが、そんな気持で生きることが大切なのではないでしょうか。

「ひとというものは、ひとのために何かしてあげるためにうまれてきたのス」

(宮沢賢治の母、イチ)

幼い宮沢賢治と添い寝するとき、いつも語りかけていたという、このことばほど、

彼を象徴するものはない。人のために自分は何ができるのか。そう問い続けた

賢治は昭和8(1933)年9月21日37歳の生涯を終えた。

「私には私の望みや願ひがどんなものかわからない」と言って突如東京へ出奔

する。これはそのころ親類にあてた手紙の中にある。

さがし続けたものを、賢治は見つけることができたのだろうか。わからない。

ただ、彼の最後のことばは、「ああ、いいきもちだ」−だった、という。

と新聞のコラム「次代への名言」に記載されていました。考えると、かの有名な

「雨ニモマケズ」はこの母親の言葉が原点ではないだろうかと私は思います。

母親の影響は凄いものですね、すばらしい母親像ではないでしょうか。

尊徳のちょいといい話 

利は不利に通ずる  尊徳の名言より

賭けをして負けるのは、勝とうとすることの変化である。

商人が不利を招くのは、巨利をむさぶることの変化である。

脱税や滞納は、しぼりとることの変化である。

*賭けで負けることは勝とうとする心の裏側であり、勝つ目的のために理性を失うからです。賭け捨ての覚悟で余財を生み出す正業に励むことです。

商人は巨利をむさぼらず、買主の利益を計れば、何の不利もありはしない。

脱税や滞納は、国の政策の不備不足が人民の反発、不満を生むのです。良き政治をしたならば、何の脱税、滞納もありはしない。と言っています。

現在の政治家にも聞かせてやりたいような名言とは思いませんか。いつの世も真理は一つなのです。時代が変わろうとも真理は永遠なり。

 尊徳のちょいといい話

強運は毎日の勤労努力なくして開かれない   尊徳

毎日毎日の努力が無ければ運はこちらへ向いては来ない。毎日の勤労努力で、米麦も茄子、大根も実り、米を飯に変えて犬猫も人も喜ぶ。農民にこの道理を教え実行した尊徳です。

政治家・教育者・役人すべてに言えることですが、上に立つ者に使命感がなく、職責を果たそうとしなければ、世の中狂うのは当然です。国家経済の破綻も学校崩壊もその結果なのです。

「我」を捨てて、広く皆のために生きることは、いま、すべての人に求められているのです。「我」にとらわれていると、さまざまな問題が起こり、手違いが生じ、正しいこともまた水泡に帰すと尊徳は教えています。

「いい種も悪い種もすべて自分が蒔いたもの」 尊徳

米蒔けば  米の草生え  米の花咲きつつ  米実る世の中(尊徳道歌選二)

 と詠んでいます。仏の道理の教え「因・縁・果」を説いた歌です。

因というのは、たとえば、蒔いた種のことだ。これを耕作培養するのが縁だ。

種を蒔いた因と、培養した縁とによって秋の実りを得る。これを果というのだ。

と言っています。(夜八八)

すべての果(結果)は自分が蒔いた種により起こるものであると言っています。

「悪業悪果」「善行善果」すべてに通じることではないでしょうか。

 「我」「欲」がもたらすもの

*「吉凶好悪(きっきょう こうお)」は全て「我」から生ずる。

人は常に自分本位に考えます。自己主張をし、自分を守る意欲が無ければ、自己を確立することは出来ません。しかし、いつまでも自我を通せば周囲や職場に抵抗や摩擦を生じて、必ず孤立してしまうものです。未熟な大人と言われるのです。  

コミュニケーションの上手な人は、「我」をいかに低く押さえるかに努力しています。

「我」を限りなく「無」に近くすることが、結果として自分も周囲も救うことになる。

心を「我」から切り離して、恩を受けた「他」や周囲全体に心を向けると、不思議に道は開け、強運に導かれる。    

多くの人間関係、職場、会社のトラブル、原因のほとんどが「我」と「我欲」です。

あまり「我」を張らず、「欲」も程ほどにしましょう。

きちんと子供を躾(しつけ)けてますか。

「躾」(しつけ)について

昨今、「躾」について雑誌や新聞紙面などでよく見かけられますが、今なぜ躾なのでしょう。これは現在の世相によるものと思われます。

事件や犯罪が低年齢化してさまざまな問題が報道されています。今日のサンケイ新聞にも各人の意見として「躾」について掲載されていました。

「躾」とは、身に美しいと書きます。本来は身も心も正しく美しくあれ。ということ

でしょう。この「躾」は誰がすることでしょうか? 当然親が子供にすることです。

昔からの言葉に「三つ子の魂百までも」とありますがまさにその通りです。

まず、親が子供に対する「躾」の一番は、人々に対する「挨拶」、全てに対する感謝の言葉「有難う」ではないでしょうか。

「挨拶」は人と人とのコミュニケーションの始まりです。親を始め近所の人、先生、

友人等々挨拶無しでは先に進めません。

「ありがとう」は感謝の心を表しています。世の中一人では生きてゆくことは出来ま

せん。何事にも感謝の気持ちを持つことが大切なのです。

現実はどうでしょうか?挨拶もできない、「ありがとう」も言えない子供が殆どです。

子供を心身ともに健やかに美しく育てようとしたら、親は何よりも「躾」をしっかり

すべきではないでしょうか。それが世の中から子供の事件や犯罪を未然に防ぐこと

につながり、明るくなるのです。

躾は各家庭でするもので学校の先生が教えるものではありません。学校へ行く以前

の問題です。昔から子供を見れば親が分かると言われています。あなたは自信がありますか?

親が率先して「躾」の手本となりえることが大切です。

「徳育の大切さ」 「家庭のしつけを見直そう」のタイトルを「主張」の欄に見つけ

ました。(原文掲載します)

文部科学省の有識者会議「子供の徳育に関する懇談会」(鳥居泰彦座長)が報告書の原案をまとめた。乳幼児期から徳育の重要性を指摘した内容で、近く提言が出される。

家庭の役割を再認識してほしい。

いじめ問題や少年非行の低年齢化などで規範意識や公共心を養う徳育の充実が求められ、文科省は昨年8月に懇談会を発足させて議論を進めてきた。

報告書原案の中では、まず「社会全般で『徳』が見失われてきている」と危機感を訴

えた。誠実さや勤勉さ、思いやりなど世代を超えて伝えられてきたものが、ここ数十

年の間に急速に失われてきたとしている。これは多くの人が感じていることだ。

インターネットの普及など子供たちをめぐる環境も変わっている。社会の教育力低下が懸念されているいま、学校教育だけではなく、家庭、地域が連携した対策が必要なのは当然だ。懇談会では子供の年齢、発達段階に応じ、徳育で重視すべき課題を取り上げてきた。家庭教育にも踏み込み、乳幼児期は親や他人との愛情、信頼関係を形成する重要な時期だと認識を示した。

また幼児期は周囲の人や自然とのかかわり、体験を繰り返し事で道徳性や社会性が芽生えるとし、遊びをはじめ子供同士の体験活動を充実させるよう求めた。

家庭、地域、学校の役割にも言及し、家庭は「子育ての基盤であり人生の基盤」と強調した。「家庭でルールを作り、愛情をもって接し基本的なしつけを行う」など「10 の提言」を盛り込む。

徳育や家庭への提言に対し、これまで押しつけなどの反発もあった。政府の教育再生会議が検討した「親学」の提言や徳育の教科化が見送られた例もある。

だが原案が「徳育では家庭の役割が何より大きい」と指摘しているように、報告書に

含まれる基本的なしつけは、言われる前に親が率先してなすべきことである。

聖地指導や家庭教育の専門家からは、家庭のしつけや学校の指導に厳しさがなくなってきた現状を懸念する声を度々聞く。家族間の事件や児童虐待も絶えない。

次の大人となる子供たちの徳育充実は緊急課題だ。教育力の低下には一刻も早く歯止めをかけねばならない。最終報告書には親や教師らの耳に痛い提言も躊躇せず、盛り込んでもらいたい。

以上のように掲載されていました。少し遅きに感じますがやっと腰を上げてきたこと

に期待しようと思います。教育は国家を左右する最も重要な問題です。なぜならば、

今教育が始まっても20年以上経過しないと教育の結果は現れてこないのです。

事件の低年齢化や社会性の欠如、道徳の欠如は数十年間続いてきた教育の結果です。

各個人が愛情と感謝の心で接すれば世の中は上手くゆくのです。現代のように自分さえ良ければ他人はどうでも良い。こんな時代のしたのは政府であり文部科学省の人達ではないでしょうか。一刻も早く提言書の実行を期待するものです。

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担当者:ライフアドバイザー
あかおぎ ひろし

人は誰も幸せになるために生まれてきたのです。
自分や家族のいろいろなお悩みの相談を受けています。
汝、悩むことなかれ。どんな人でも悩みの無い人は居ません。
早く心と気持ちを軽くして、前を向いて生きて行きましょう。
多くの方が心と気持ちを軽くして幸せになっています。
どんなことでもご一報ください、無料で相談させて頂いています。