「縁起」とは何か
縁起とはなんであるか。無明の縁から行(ぎょう)があり、行の縁から識(しき)があり、識の縁から名色(みょうしき)があり、名色の縁から六処(ろくしょ)があり、六処の縁から触(そく)があり、触の縁から受(じゅ)があり、受の縁から愛(あい)があり、愛の縁から取(しゅ)があり、取の縁から有(う)があり、有の縁から生(しょう)があり、生の縁から老死(ろうし)、愁悲苦憂悩(しゆうひくうのう)が生ず。このようにこの一切の苦蘊(くうん・苦のあつまり)の集起(しゅうき・集まり生起する)がある。
私たちの最大の苦悩は「死」でありましょう。なぜ人間は死ななければならないのか。十二因縁法によれば、それは「無明」(むみょう)に原因があるとされる。無明とは因縁や四諦(したい)の道理を正しく知らない、知っていてもこの道理を無視するところに生じる「迷いの根元」のことです。無明は性欲を生ずる縁となり、性欲本能の行為(行)を起こすため本能の奥に無明を設定するわけですが、ここに仏教思想の特徴があります。
無明と行とは、私たちが生まれる以前の過去の因です。この因が、男女の縁によって新しい命が母胎に宿り、人間の命を保つ根本的な要素をまず生むとされています。この根本的なものを「識」(しき)となずけます。この識が、人間の心身(名色)の発育を促し、五体と感覚や意識を生ずる六根の眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんい)が成長します。それが「六処」(ろくしょ・六人とも)で、母の胎内をまさに離れようとする状態です。