今回で「般若心経に学ぶ」は終了です。では最終回の解説です。  

*波羅僧羯諦  もう迷いの世界へは戻らない

ギャーテー・ギャーテーで彼岸への道が始まったのですが、途中でとどまってし

まっては何にもならない。

したがって、「波羅僧羯諦」パーラ・サンガテー、となる必要があります。

彼の岸へと完全に到達した、ということであり、もう再び迷いの世界へ舞い戻っ

てこないことを意味しています。


*菩提娑婆訶 悟りの世界へ着いた めでたし

「婆娑訶」スパーハーというサンスクリット語の音写。

意味は、吉祥・円満・成就、といったことですので、“めでたしとか“やり遂げ

たとかと訳されている。

*般若心経  

これで「般若心経」という仏(釈迦)の説教も終わる。したがって、これでお経

も終わりですよ、という意味を込めて再度経題が出されてきます。

以上で「般若心経」の解説は終わりです。  合掌。

長い間ご訪問いただき、お付き合いを有難うございました。お経は意味深いもので

す。

生きてゆく人生の指針として、忘れていた自分を取戻して頂ければ必ず光が見えて

くる ことでしょう。

この解説は、著者 花山 勝友師の著書より引用させて頂きました。

感謝申し上げます。

*第十節  安らぎの世界へ飛翔!

いよいよ般若心経も最終となりました。

故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰  羯諦 羯諦 波羅羯諦 
こせつはんにゃはらみつたしゅ  そくせつしゅわつ  ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい

波羅僧羯諦 菩提娑婆訶 般若心経
はらそうぎゃてい   ぼうじそわか   はんにゃしんぎょう  

《現代語訳》

さてそこで、智慧の完成の真言を最後に出しておくことにしよう。すなわち、その真言とは 次のようなものである。

“往き 往きて 彼岸に往き 完全な彼岸に到達したものこそ 悟りそのものである めでたし

「智慧の完成についての最も肝要な教えを説きし聖典」


*羯諦 羯諦  彼岸への第一歩を踏み出した

 いよいよ般若心経も終わりに近づいて、「これまでは説明、これからは真言ですよ」、

すなわち、その真言とは次のようなものですよという意味です。

これは、経典翻訳者の玄奘三蔵が、わざわざ中国語に翻訳しないで音写の形で残

したのです。

意味は(この迷いの世界からあの悟りの世界へと)往った。という事です。

まさに彼岸への第一歩を踏み出したのです。

*波羅羯諦  真言とは悟りの内容を示す秘密の言葉

真言は悟りの内容を示してはいるが、単なる言葉としてしか私達には迫ってこない。

ですが、この言葉は永久不変なのです。時間を超え、空間を超え、多くの人間が生き、 死んでいくものの、これだけは変化しないし、なくならない。

羯諦  =往き

羯諦  =往き

波羅羯諦=彼岸に往き

真理そのものは、何万言ついやしても表現できない。ただひたすら、聞き、口に

することだけなのです。

第九節のおわり

*「能除一切苦」 正しい智慧こそが一切の苦を取り除いてくれる。

*「真実不虚」 一切は空、と受け止めなさい。

 今までの経文によって理解すると、真実とは、この世のあらゆる存在や現象を、

“空すなわち実体なきもの、と受け止める事であり、その反対こそが虚妄というこ

とになるでしょう。

すなわち、“空を理解して悟りの境地に到達することこそが真実であり、その真実

に導いてくれるのがこれから説こうとする真言であるから、それ以外のものはすべ

て虚妄なのです。

つまり、とらわれの心を捨てて世の中の本当の姿を見る事が出来る・・これが真実

なのです。

私たち人間は全知全能ではない。自分の持っていること、知っていること、できる

とをすべて吐き出したとしても些細なものでしかないのです。

現在、人間は肉体と心という制約があるために、さまざまな本能と欲望によって苦

しめられています。もし、これらの本能や欲望を捨て去ることが出来たら、本来

“仏の種としてある仏性が外に出てきて、“最高のこの上なき悟り(阿耨多羅三

藐三菩提)の境地に入ることが出来る。すべてのものの真実の姿を見通すことが出

来るし(智慧)、どんなことでも成し得る能力(慈悲)を兼ね備えた存在になるこ

とも可能なのだ。と信じたのです。

でも、そんなことが本当に出来るのでしょうか? できるのです。

その証拠が、釈尊を含めた過去の仏であり、智慧の実践を説いた経典なのです。

要は、釈尊の存在を信じることが必要なのです。

仏様が我々平凡な人間に遺してくれた“真実の言葉すなわち“真言(呪)を唱え

てみようという事になるのです。もう理屈ではないのです。

次回から、いよいよ最後の第十節に入ります。
 

*「故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪」

お経を読むと、「得阿耨多羅三藐三菩提」の次に「故知般若波羅蜜多・・」と続く。

この「得阿耨多羅三藐三菩提」が仏教の目的である以上、多くの経典の中では最後

の部分にこの言葉が出されてきます。

「般若心経」の場合も正にその通りで、そろそろ終わりに近づいたことを意味します。

「呪」という句は、普通一般に用いられている意味での“おまじないや“のろいと

いった意味ではないです。

真理を文字に表わしたもので真言の意味です。が、人間が期待しているものは、お

まじないによる効果と似たようなものである、といった点では類似性を有しています。

大神呪 :偉大なる真言。「すごいんだよ」

大明呪 :悟りのための真言。「全くすごいんだよ」

無上呪 :最高の真言。「最高だよ」

無等等呪 :比類なき真言。「他とは比較にならないくらいすごいんだ」

と訳していますが、要は般若波羅蜜多がいかに優れた真言であるかを、形容したと

言葉として考えてください。

*「得阿耨多羅三藐三菩提」 “完全にして正しい知恵を得る。

 この言葉は、多くの経典の中に出てくる言葉で、仏教という宗教にとって、これほど大切な 言葉はない、と言ってよいほど重要な句です。

これこそが、仏教の最終目的である仏陀に到達した者が得ることが出来る、完全にして正し い知恵、すなわち「般若」の智慧なのです。

 いよいよ般若心経も最終を迎えます。

*《第九説》 あるがままに生きる素晴らしさ
 
三世諸仏   依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅 三藐三菩提    故知般若波羅蜜多
さんぜしょぶつ  えはんにゃはらみつたこ  とくあのくたら   さんみゃくさんぼだい  こちはんやはらみつた

是大神呪   是大明呪   是無上呪   是無等等呪  能除一切苦  真実不虚
ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ  ぜむとうとうしゅ  のうじょいっさいく じんじつふこ

(現代語訳)

過去・現在・未来の仏たちは、智慧の完成を実践するので、この上ない最高の悟り

を得ることが出来るのである。したがって、智慧の完成という実践行こそが、偉大

なる真言であり、悟りのための真言であり、比べるべきもの無き真言であり、これ

こそがあらゆる苦しみを除き、真実にして虚妄ではないものだ、と言うことが出来

るのである。と訳しています。

*「三世諸仏」 三世諸仏の一人がお釈迦さま。

仏陀と呼ばれているのは釈迦だけではないのです。仏にも過去仏・現在仏・未来仏

と大きく三種類に分けられています。これが三世諸仏なのです。

過去仏(過去七仏)の中で第七番目を釈迦牟尼仏としている。

過去仏に対して未来仏は、弥勒菩薩(みろくぼさつ)は釈迦牟尼仏の次にこの地上

で仏になると説かれています。弥勒菩薩が次に地上に現れるのは、何とその時期が 釈迦入滅後五十六億七千万年経過してから、ということになっています。

現在、弥勒菩薩は兜率天において修行していると言われている。

その間を、無仏時代とよんでいます。その期間に生まれ死んでゆく無数の人々を救

済するために現れる菩薩が地蔵菩薩であると言われています。

このように、未来仏としての弥勒菩薩、無仏時代の救世主としての地蔵菩薩、とい

う二人の菩薩に対する信仰は現在に至るまで、多くの像が造られて拝まれ続けて

いるのです。

「兜率天」(とそつてん)

仏教では天界を、欲界、色界、無色界に分けている。兜率天とはそのうち欲界の一つ である。

釈尊もかつて兜率天において修行していた。

《如来》

釈迦如来 : シャカ。釈迦牟尼仏ともいう。

阿弥陀如来:無量寿如来、無量光如来ともいう。西方極楽浄土の主。

薬師如来 :正式には薬師瑠璃光如来という。東方瑠璃光世界の主。病苦の人々を救う。

毘盧舎那如来:盧舎那仏(びるしゃな)ともいう。大仏のこと。宇宙全体の華厳世界の主。

大日如来 :毘盧遮那如来が「大日経」において説法するとき、この名称を使う。

「あるがままに生きよ」

私たち人間にとって悟りの境地とはどんなものなのでしょうか?

仏教では“煩悩を取り除いて、悟りの状態である仏陀の境地に到達することを目的としています。それは何も、

この世を否定するものでもなければ、早く死ね、と言っているわけではありません。

“そのままの状態で ”人間の生きている意味を見つけ出すことなのです。

われわれ人間は、すべて自分自身の“色めがねを持っている。そのままの状態で物事を受け取ったり、判断する

ことが出来ないのです。

“親だから、大切にしなければ

“恋人だから、優しくしてあげよう

“自分の仕事だから、真剣に取り組もう

”ご近所だから、挨拶をかわそう

この“だからというのが“色めがねなのです。


この論理からいえば親でないから恋人でないから優しくする必要はないとなる。

このような相関関係の中で判断するからこそ、迷いもすれば、苦しみを味わうことにもなるのです。

この世の中を、そのままの状態で見つめ、あるがままに生きる・・・・これこそが、 涅槃の境地なのです。

すべてが無なのですから、親・子供・恋人・も無い。仕事・金銭・地位・名誉な どもない、すべては「空」な

のだ、と言っている。

この静寂な境地に到達すれば、もう人間世界の巨大な歯車の中で、個性を埋没して 生きることなどなくなるの

だ。何物にもとらわれず あるがままの姿で生きよ

そう教えてくれているのです。

心からわだかまりが消えたら(心無罫礙)、そこに自由の世界(涅槃)が待っているはず。

なんの恐ろしさも感じない(無有恐怖)、誤った考えもしない(遠離一切顛倒夢想)。こんな境地が自分に訪れ

たら、きっと素晴らしいでしょう。

そこには、自分を利するといった功利的な考えはない。

色めがねを持っていると、執着心という不幸を背負っているし、苦の原因を自ら作り出していると言えるでしょ

う。

人間は、本来一人なのです。有利だとか不利だとか、そんなものとは関係なしに,一個の人間として存在している

のです。

与えられた、限りある「生」の中で、人間の我執を捨てなさい、そうすれば本当の自由の境地に一歩でも近づけ

るのですよ、と仏は説いているのです。

世の中の真実を知り、心についた一切のカキを払落すよう努力しなさい・・これがお経の言わんとしていること

なのです。

なるほどとは思いますが難しいことです。でも少し努力してみませんか。

第八節

*「究竟涅槃」  涅槃とは“死すること生きるが如き境地。

ゴータマ・シッタールタは、今から約二千五百年前に北インドの小さな国の王子に生

まれた。二十九歳の時に出家し、六年間の修行の後、三十五歳の十二月八日の早

朝、この世の真理に目覚めて、“悟りの境地に達し,そ

して”めざめた者すなわち仏陀になったと言われている。

“涅槃という言葉は、釈尊が死んだことを意味する言葉として用いられていますが、

本来は,“滅とか”寂静と訳されています、静かな状態を表す言葉です。

菩薩の段階に達した者も、やがては心が平常になって、永遠に迷いの世界から離

れ ることになる、というのが、「究竟涅槃」の意味となります。

釈尊は三十五歳の時に涅槃に到達したのですが、八十歳で死ぬまでは、肉体は生

き 続けていたので、いくら煩悩の炎を吹消したと言っても、生きる為には食べること

も、寒暑や、肉体の苦痛までがすべて感じられなくなった分けではない。それは完

全な涅槃ではなかった。

そして八十歳で肉体が消滅したときに、身体の本能的機能までが働かなくなったの

で、完全な涅槃となったのです。(釈尊の死んだことを入涅槃とよぶ)

涅槃の状態を“生死一如といい。死すること生きるが如き境地という事だそうです。

われわれ人間は誠に残念ですが、生きている間にすべての欲望の炎を吹消すこと

のできる分けはありません。

やはり私たちは、自らの煩悩によって苦しみ続けなけれ ばならないのでしょう。

*「遠離一切顛倒夢想」 一切の誤った考え方から遠く離れなさい。

人間はこの世に生をうけてから、二十年経てば成人、つまり大人になります。成人 するというのは、以後の人

生を自分の責任において切り拓いてゆく、という事です。

しかし、人間は全知全能でもなければ、万能でもない。たった数十年の体験で得た ものだけに頼って、物事の

正邪を決めるのは、浅はかでしょう。 

偏った心からは、偏った見方や行動しか生まれてこない。

まず、自分の無力さを認めることです。考え方にしても、語っている言葉にしても すべて親・友人・そして多

くの先達が残したもの、すべてが他人からの受け売りにすぎない。

一切の誤った考え方から遠く離れなさい。と仏は言っているのです。“顛倒した夢想など、しょせん、仏の掌の外

にすら出られないものなのだ。と言っています。

偏見から離れなさい、そうすれば涅槃の境地に行けますよ、と示瞬しているのです。 

自分の持つ偏見を無くすことは難しいですが、無くす努力が大切なのではないでしょうか。

  *「無罫礙故 無有恐怖」 平常心をもてば恐怖心はおこらない。

 恐怖心は、自分が所有しているものを失うのではないか、と考えることからも起こ

  ってくる。

  一人で夜中に道をあるいていても、奪われる何物をも持たない者にとっては、何の恐怖も感じない。(しか

  し、命を奪われるのは怖いですよね・私語です)

  つまり、「無罫礙故 無有恐怖」なのです。

  持てる者の悩みと言いますが、お金にしても物にしてもあればあるほどそれを失

  うことに恐れや苦しみを感じるものです。人間の欲望には際限がないのです。

   焚くほどに 風の持てくる  落ち葉かな

  この良寛さんの読んだ句の心境のように、今日生きてゆく糧さえあれば満足する境地になることこそが本当の 

  幸せなのだ。と言っています。しかし、必要ないほどの 落葉をかき集めて、それでも足りない足りないとせっ

  せと貯め込んでいるのが現実であります。貯め込んだらそれを失いたくないと、鍵をかけ大切にしまい込んで,

  その上、もっと貯めようとあくせくしているのが人間の姿です。

  物や財産に対する執着心を持っていなければ、たとえどれほど多くのものを失おうとも、何も苦痛を感じない

  し、初めから何もなければ、失う心配はないことになり ます。

  菩薩の状態に達した者は、あらゆる物に対して執着心が無いのですから、心に何もわだかまりもなく、常に平 

  常心を保っていることが出来るのです。

  つまり「恐怖あること無し」なのです。  菩薩は凄いですね。

*「心無罫礙」 心静かな状態。心に妨げがない。

 心静かな状態とは、どんなことを言うのでしょう?

 恐怖について考えると。

 恐怖の対象と言ったら何でしょう。

 地震・雷・火事・洪水・嵐・飢饉(干ばつ)といった自然現象の他に、戦争・

 泥棒(強盗)・貧乏といった人災、そして、老・病・死という、誰もが避ける

  ことのできない現象の三つではないかと言われます。

  考えてみると、これらのすべての恐怖の対象は、最後の死に結びつく可能性が

  あるからこそ怖いのであって、それが死と直結しないと分かれば、ある程度恐怖

  は薄れるはずです。

  かつては、お化け・幽霊・悪鬼・たたりといったものも恐れられていましたが、

  その理由は、人間の生命を脅かすもの、といった考えからでしょう。

  なぜ、目に見えない何物かが恐ろしいのか?

  常にこちら側に恐怖心があるからであります。つまり、心にさまたげ(罫礙)が

  あるからこそ、よく見ると何という事もないものに対してでもこわいと錯覚して

  しまうのです。

  放射能の恐怖を日本人は経験し、また目の当たりに見ているので、いくら目に見えなくても、「心無罫礙」と言っても恐怖心を感じないわけにはいきませんね。

*「菩提薩埵」 悟りを目指している者という意味 。 

  菩薩も特定の人を指すのではなく悟りを目指している者すべての総称です。

  (菩薩:修行中の者)→ 仏陀:悟りを開いた者)

  弥勒菩薩  未来の救いの象徴。

  観世音菩薩 衆生を救う慈悲深さの象徴。

  文殊菩薩  智慧の働きの象徴。

  普賢菩薩  仏の実践行と誓願を象徴する。

  虚空菩薩  智慧と福徳の象徴。

  地蔵菩薩  無仏時代の救いの象徴。(現代)

 今回から第八節です。

*第八節  自由でおおらかな心を

菩提薩 依若波羅蜜多故 心無罫礙 無罫礙故 無有恐
ぼだいさった  えはんにゃはらみたこ      しんむけいげ    むむけいげこ   むうく

  遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃
  おんりいっさいてんどうむそう     くきょうねはん

(現代語訳)  かくて悟りを求める者たちは、智慧の完成という実践行に従っているので、心は

  何の妨げもなく、妨げが無いから恐れがなく、すべての誤った考え方から遠く離れ

  ているので、最後には永遠にして静かな境地に到達することになるのです。

文豪とか巨匠、名優などと言われる人はいろいろな言葉を残しています。

今日は、今回読んだ本の中にあった文豪、吉川英治の言葉を紹介します。

われ以外のもの、すべてがわが師素晴らしい言葉ですね。

こんな心境になりたいものです。

前回に引き続き「無」「空」の内訳を教えています。

「空」とは実体のないことです。

  花はくれない 柳はみどり

という言葉がありますが、だから花は美しく、柳は新鮮に映る。はいいのですが、

仮に、くれないの花のほうが他の色の花よりはるかに美しい、柳の木は新鮮ですが、枯葉をつけている他の木々はきたない、という評価になると。人間の価値判断が 加わってくることになります。(ここが大切なのです)

悟りの状態に到達したものは、この世のあらゆる存在や現象に対して、そのような

判断はしない。

“すべての物をあるがままに見ることが出来るようになるのです。これはすべての

物に対する執着心とか所有欲といったものがなくなるので、あそこに木があり

ここに川があるという受け止め方をするだけなのです。

あるがままに見る。

眼からうろこがとれた境地には並大抵の努力では到達できませんが、だから、一歩

でも二歩でも現実の生活の中で近づく努力をしてみよう、と考えることが大切なわけ

です。

一人の人間を見るとき、男性か女性か、老人か若者か。美しいか醜いか、といった

ものを超えることが出来たら・・・・・。一度試してはいかがでしょうか。

あるがままに見る 簡単そうで難しいことですね。

*「無智亦無得 以無所得故」 
           (人間はもともと得るものが無いのだから、智も得もない)

人間は誰でも生まれたときは裸です。持ち物も何もない。人間は“本来無一物の存在です。

ところが裸で生まれてきた人間も成長するに従い、必要な生活必需品、すなわち、最低の衣・食・住が与えられる。また自分の力で手に入れることによって、いつの間にか、「僕の物」「私の物」といった我執が生まれ、「他人の物」と区別するようになる。

しかし、よく考えてみると、いかにも自分の力によって得ることが出来たように見える知識や教養・学問といったものさえも、すべて他人によって与えられたものばかりであります。

社会の中で生きている以上、互いに助けられたり助けたり、という関係で毎日を過ごすことになるのだから、“自分だけの力で得ることが出来たものなんか何一つないのです。

ただ単に“縁によって与えられたものを一時的に所有させてもらっているだけなのです。

こう考えれば、自分の獲得した知恵や物であったと信じていたものも、結局一時的な借り物に過ぎなかった、という事が理解出来るのではないでしょうか。

したがって、本来無一物であるわたくしという人間に、“私の智慧(智)、“私の物(得)などと言えるものは何一つなかったのだという事です。

第七節つづき

*「無苦集滅道」 四つの真理すらも“空である。

迷いの世界には、四苦八苦というような、様々な苦しみが満ちています。その苦しみを断ち、悟りへと導く方法を説いたものが、“四諦とよばれる四つの真理、お経の中に出てくる「苦集滅道」です。

なぜこの世が“苦であるか?それは、渇愛とよぶべき、人間の執着心があるからです。
それを
“集とよぶ。

では、その苦の原因を滅さない限り、いつまでたっても苦しみはなくならないはずです。そこで、苦の原因である渇愛を滅ぼし尽くそうというのが“滅です。そして、どうしたら
人間の持っている執着心を無くすことができるのだろうか?

それを説いたものが
“道です。
“道には全部で八つの方法があります
。“八正道( はっしょうどう)とよばれています。

  苦の原因を滅ぼすための八種の実践方法です。

 1) 自己中心の見方や、一方的に偏った見方をしないで正しく真実を見ること。

     (正見)(しょうけん)

 2) 自分本位の考え方をせず、大きい立場から、真理に照らし合わせて考えなさい   と言うこと(正思または正思惟)(しょうし・しょうしゆい)

 3) 正しい真理・法則に従い真実の言葉をかたる(正語)(しょうご)

 4) 正しい真理・法則に従い行為を行う(正業)(しょうごう)

 5) 正しい職業、正しい収入で暮らしを立てること。(正命)(しょうみょう)

 6) 正しい使命・目的に対して、正しく励み、努力し、怠ったり、脇道へそれたりしな   い。 (正精進)(しょうしょうじん)

 7) 正しい教えのみ、真理、法則を見、強く思うこと。(正念)(しょうねん)

 8) 心を常に正しく置き、周囲の影響や環境の変化によって動揺することが無いよ   うにする。(正定)(しょうじょう)

  以上の八つです。


八正道の言おうとするところは、人間の行為のすべてを、それが身体での行為であれ、口で行う行為であれ、さらには心で行う行為であれ、正しくせよ、ということです。

正しくさえすれば、自然に執着心は消滅し、この世の苦しみはなくなり、やがて悟りの境地に到達できる、というのです。結局のところ、この世を苦しみと感じる事さえも、自分自身がまだまだ執着心を持って、苦と楽とを差別している、ということに気が付く必要があるでしょう。人間の苦の原因の根本は「執着心」と言えるのではないでしょうか。

苦しさを かたる言葉に 安堵あり。

聞く耳を 持たない人に 悩みあり。

子ができた 知らせをもらう 喜びよ。

感謝です 感謝です すべてに感謝する気持ち。

釣れても釣り 釣れなくとも釣り。

この前、何かで見かけたのでメモしておいたものです・

知人の夫婦のご主人が六年の闘病生活の末73歳で亡くなられました。

奥様にお会いしましたが、寂しさが募りますが6年間の病院通いは大変でした。しかし、反面ホッとしましたと言ってました。

回復は無理ですと言われての6年間は大変だったと察します。自分に残された人生を有意義に過ごすことにします。と言っていました。

誰もこの世に生を受けたからには遅かれ早かれやがて死を迎えます。生老病死といいますが、死は悔いを残します。

人生悔いを残さないように日々の生活を有意義に過ごしたいものですね。

私も77歳を迎え、何時何があってもおかしくない日々です。少しでも悔いのない人生を送りたいと思います。

第七節 つづき

*輪廻転生の考え方とは?

 輪廻とは、過去世から現在世、そして未来世へと生死を繰返すことですが、それは迷いを断ち切って悟りの世界へ到達しない限り、つまり仏陀にならない限り永遠につづくのです。

したがって、十二縁起の第十二に「老死」とあるのは、さらに次の迷いの世界へ転生することを意味しているのです。三世にわたる輪廻転生の原因と結果を十二の鎖の輪によってえてみると。

老化してやがて死ぬのが人間の定めですが、それは第十一の“生があったからで、すなわち生まれからかこそ人間は老い、死んでゆくのです。それではなぜ生まれたのか?第八の自らの欲する対象に対する愛着心(愛)と、第九のそれらを自分のものにしようとする執着心(取)と、第十の生存したいという欲望(有)との三つが原因となっているからです。

では、未来世に生まれる原因は何か?母親の胎内に初めて一個の生命として宿る第三識、やがて母胎の中で心身が発育してゆくという色、そして母胎の中の六つの感覚器官が徐々に完備してくる段階の第五の六入、生まれた後に外界の様々な対象にふれてゆく第六の触、それらの対象に対して苦楽を識別するようになる第七の受、といった段階を通るからです。

それではなぜ識が生ずるのか?第二の、宿りたいという願いである行があるからであり、その原因が、第一の無知すなわち無明という迷いの根本なのです、ということになります。

したがって、われわれ人間が、迷いの世界に輪廻しなければならない根本原因こそが、真実の悟りに対する無知である、ということになります。

そこでこの無明を断ち切らない限り、迷いの世界を超えて悟りの世界へと到達することは不可能なのです。ということが仏教における十二縁起という教義が説かれているわけです。

自分が無知であることにすら気づいていないような凡人が、相対的差別を超えた悟りに到達することなど、とうてい無理なことなのかもしれません。

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