宝所とは
いま私たちが仮に不幸であったら、それは何かの祟り(たたり)や運命のせいではなく、仏・菩薩の教えに出会えるご縁であり、自分の人生開発の機会を恵まれたのだと、気ずかされるでしょう。この化城喩品でキャラバンを組んで「宝所」を目指す分けですが、その途中の出来事を喩話(たとえばなし)をしているわけです。
現実的な利益が途中の“ドライブイン“で、逆協を生き抜く知恵と勇気に目覚める場所が「宝所」です。「宝所」は読んで字のごとし、宝の国・珍しい宝のある国で、心の安らぐ場・さとり所に譬えられています。宝所を仏教用語では涅槃(ねはん)と名づけています。
しかし今にして思えば、私たちの苦労は「私たちの過去の業の報いと受けとめつつ、他の苦労を慰め、助言もできる徳力の充電期の縁を深めるためであった」と気づかされもらいました。 切羽つまった祈りや願いを熱心に続ける現世的信仰が、そのまま、涅槃の宝所に近づけるようになるのです。宝所は幻のドライブインの先にあるのですから、現世利益のドライブインがあるおかげで、涅槃の宝所へ進む縁が実るのです。「化城喩品」は、さまざまな真実を示唆してくれるのです。長い化城喩品でしたが最後まで有難う御座いました。 次は「五百弟子受記品」の解説です。