幸せと不幸は表裏一体、ではないでしょうか。今日、幸せを感じても、明日はわからないのです。人生は幸せ〜不幸〜幸せ〜不幸の繰り返しで、振り返ってみて幸せの数が多ければ幸せだったんだナ。と思えるのではないでしょうか。
幸せも、不幸も、諸行無常です。人間の寿命も、人生も諸行無常です。
少しでも幸せを感じる生き方をしたいものです。
幸せと不幸は表裏一体、ではないでしょうか。今日、幸せを感じても、明日はわからないのです。人生は幸せ〜不幸〜幸せ〜不幸の繰り返しで、振り返ってみて幸せの数が多ければ幸せだったんだナ。と思えるのではないでしょうか。
幸せも、不幸も、諸行無常です。人間の寿命も、人生も諸行無常です。
少しでも幸せを感じる生き方をしたいものです。
今日の一言(外山武史さんの言葉より)
ときには大胆に
確かさばかり求めてぐずぐずしている人には大きなことは決してできない。
イギリスの女流作家、 ジョージ・エリオットの言葉。
耳が痛い言葉。というのも僕は、親から「石橋を叩いても渡らない」と言われるほど、慎重な子どもだったからです。
多少のリスクを背負わなければ、前には進めない。
一歩目を踏み出せずに、悔しい思いをするのは嫌。だから、ときには大胆に行動したいと思います。慎重すぎる方は、一緒にぜひ。
(外山武史)
なかなか、その一歩が踏み出せないのですよね。頑張ってみましょう。
今日の一言を見つけましたので紹介します。先人は良い言葉を残してくれました。
ほめ言葉をケチるな
ほめ言葉をもらえば、それだけで二ヵ月間、幸せに生きられる
『トム・ソーヤの冒険』でお馴染みの作家、マーク・トウェインの言葉。
学生時代、ほめられることが多かった人も、社会人になると人からほめられる機会が少なくなる。その分、ほめられたときは嬉しく感じるものだ。ほめるだけで、人を幸せにできるのなら、もったいぶらない方がいい。
それに、他人をほめれば、いつか自分にも返ってくる。そんな気しません?(外山武史)
人は誰でも、ほめられると嬉しいし元気が出ます。やる気にもなりますね。大人になっても人を褒めることは大事なことではないでしょうか。
禅語の教え
*喫茶去(きっさこ) 本物のもてなしの心
数ある禅語の中で、一番読んでホッとできるのが、この「喫茶去」ではないでしょうか。
と書かれてています。意味は「お茶を一服いかがですか」「お茶でも召上がれ」という言葉です。「喫茶去」と言って接する心には、貧富や、男女、自他の分別はないのです。
古来、茶道家はこの「喫茶去」の語を茶掛けにして、みずから無心に茶を点てて、貧富貴賎の客を選ばずに施す心を養ってきたようです。
私達は、好きな人や偉い人、見返りを期待できそうな人には丁寧にもてなし、嫌いな人や興味のない人、印象が悪い人にはいい加減な対応をしてしまいがちです。「喫茶去」の心をもって、誰に対しても分け隔てなく、真心から接したいものです。と書かれています。
明日からでも「喫茶去」の心境で人には接しましょう。自分がこの心境で人に接すれば、また、自分も相手から「喫茶去」の待遇を受けるのです。
地獄・極楽の話は御存知でしょう。地獄はあの世のものではないのです。
現世で悩み・苦しんでいることは地獄の苦しみと同じなのです。なぜ人間は悩み苦しむのでしょうか? それは前世からの償いです。人間は誰も前世があります。前世の罪と現世で犯した罪が重なると「宿業の余罪重障にして・・・・」と罪が重なり苦しみ悩が増すのです。
人間世界に生まれた我々はまだ救われる道があります。犬や野犬や虫などに生まれ変わった者はどうにもなりません。人間と生まれた我々に課せられた課題は「償い」です。
人間は前世・過去・現在に犯した罪の償いをしなくてはなりません。償いが完全に実行されることにより、再び転生する事はなくなります。大変難しいことです。
殆どの人間は永遠に輪廻転生を繰り返し来世に再び生まれてくるのです。これが人間です。
生きている内に少しでも「自利利他」の心境で徳を積み生きることが大切です。
*妄想
なぜ自分の思い通りにならないのか。他人ばかりいい思いをするのはなぜか。
私たちはそんな考えにとらわれがち。でも怒り、嫉妬、不安、憎しみなど心に
生まれる負の感情は、自分の心が勝手に作る「妄想」だと気づけば、人生が
スッと楽になるはず。
*看々臘月尽(みよみよ ろうげつ つく) 人生は短い
臘月(ろうげつ)は、十二月の別名。看々(みよみよ)は、良く見なさいの意味。
見時通り解釈すれば「もう十二月も終わってしまいますよ。月日の流れの
早いことをよく見なさい」ということになります。
「臘月」は、十二月を示すと同時に私達の人生も暗示しています。十二月
があっという間に終わるのと同じく、人生もあっという間に終わってしまい
ますよ、ぼんやり生きず、命 の尽きる時をしっかり見なさい、と諭していま
す。
どんな風に生きても、一生は一生。だらだら過ごしても、目標を達成するた
めに努力しても、時間は同じ速さで流れていきます。人生の終わりに後悔
しないためにも、やり残しは作らない。そのためには、やるべき時が今だと
思ったら、後回しにしない事です。
「明日やれば」「また今度」と言っているうちは、何時までも実行できませ
ん。
慌ただしい年の瀬、この言葉を思い出して「人生の臘月」について考えるこ
とは、怠けがちな自分を戒める、良い機会になります。
私たちはつい「次にするか」とか「今日はいいや」等と何かと後回しにする
ことが多々ありますが、これはやり残しを作る原因ですね。何事も後回し
にしないで気が付いたときに即実行することですね。「光陰惜しむべし、時
人を待たず」という言葉がありますよ。
*他是不有吾 (たはこれわれにあらず) 人生にピンチヒッターはいない
曹洞宗の開祖、道元禅師の修業時代の話で、禅の道を求めて宋代の中国に留学した若き道元は、夏の炎天下で、食事を担当する年老いた典座が、茸を干しているのを見ました。
老典座にはつらそうな仕事なので、道元は思わず「そんなきつい仕事は、使用人に頼めば良いではありませんか」と言いました。老典座の答えは「他は是れ吾にあらず」、他人に任せてのでは自分の修行にならないということです。道元が気遣って「なぜ、こんな暑い中で苦労されるのですか?」と尋ねると、老典座は「さらに何れの時をかを待たん(今やらずに、いつやるのか)」と答えました。
面倒なこと、気乗りしないことも、今この時にすべきことは後回しにしない。この日、この時がつねに「一大事」だから、決して疎かかにしてはならないことを、この言葉は示しています。
これは、私たちの日常にもあてはまります。注目を集めやすい仕事、目立たない仕事、楽な仕事やきつい仕事など、様々なものがありますが、どんなことでも求められる役割を、一心に勤めあげ、全力を尽くすことが大切です。
一人ひとりの人生には、ピンチヒッターもピンチランナーもいません。それぞれが、一人で歩まなければなりません。やる気がなかなかでないとき、「他は是れ吾にあらず」と、そっと唱えると、元気を分けてもらえる気がします。
人生は一人で歩まなければならない厳しい現実です。と言う事ですね。
禅語の教え
*大道無門(だいどう むもん) 目標に向かって前進あるのみ
「大道」とは真理にいたるための道。その大道には門が無い、つまり入り口がないという意味です。大道は仏道の道に即して生きることで、そのための決まった道があるわけではありません。でも無門といい、千差路有りといいながら、安易に無門を通過できるものではありません。入り口のない無門はそのまま難問の関所であり、ただでは通れない無門関です。命を惜しんで修行し、仏意にかなう手形を得てはじめて門を通過したとき、ついに何ものにも縛られず、自由自在な境遇に至れるのだといいます。これは修行者に示した言葉ですが、私たちの人生にも当てはまります。
私たちが目標に向かって進むとき、その道は一本だけとは限りません。人生の道は、一つではなく千差路あり、どの道を行くにしても、しっかり目標を定め、確かな足取りで実践してゆきたいものです。と書かれています。
どの道から入ればいいか悩んで進めなくなってしまうより、実際に行動し、努力するほうがより現実的です。先ずは前進のみです。
某車のディーラーの所長さんと話す機会がありました。日頃の仕事に大変お疲れの様子でした。上からは売り上げ増強を押し付けられ、下からは仕事の多さに苦情を言われて中間管理職は大変な苦労をしているようです。企業は業績を伸ばすために躍起となって部下に対しては唯数字ありきで目先の数字に翻弄されている社員は見ていて可哀想なようです。
数字のみで判断していると、おろそかになるのが人間としての基本ではないでしょうか。業績を 伸ばす事にだけ気をとられていると今回のトヨタのリコール問題のような結果になること請け合 いです。話を聞いていると地獄を見ているようです。餓鬼地獄でしょうね、何も無くて人の吐い た つばや痰、排泄物までも食べて生きようとしている状態。他人はどうでも自分だけ良ければ 何 でもあり。今はこんな時代なのでしょうかね、嘆かわしい時代です。
数字ありきのみに走っていると必ず問題が起こります。人間関係・コミニケーション不足など現代の問題です。笛吹けど誰も踊らず、になってしまうような気がします。もう一度離れた所から冷静に見つめなおしたほうが良いのではないでしょうか。 企業は人なり、お金や業績は後からついて来るもではないですか。
●癒しの禅語
*生死事大(しょうじ じだい) 自身に問いかける「生」 六祖壇経
私たちは皆、さまざまな希望を持って生きています。何を目標にするかは人それぞれですが、人生で最も大切なことは結局「どう生きていくべきか」を問い続けることです。
「生とは何か」「死とは何か」「人はいかに生きるべきか」を考えることです。
この世では、生まれたものは必ず死に、出会ったものはいつか別れ、持ったものは失い、作ったものはこわれます。時は矢のように過ぎ去っていきます。すべてが「無常」です。
はたしてこの世に、無常でないものなどあるでしょうか。と書かれています。
禅宗の僧堂では毎日、朝夕の時を告げたり、法要を知らせるために板木(ばんぎ)という法具を打ち鳴らします。皆さんも見たことがおありでしょう。その板木の表面には、この言葉「生死事大」が墨書きされています。今度見かけたらよく見てみてください。
あなたは、与えられた一生をどう生きてゆきますか?もう一度考えてみませんか。
友人と温泉に行きながらの話しで、職場の人間関係、地区内の人間関係・友人との関係と話が 進みました。結局のところ、お互いに長くお付き合いを続けるには、相手の気持を察することが 一番大切ではないかという結論に達しました。お互い心を開いて話が出来ることは一番です。
互いを気遣い相対してゆくことが長くお付き合いが出来るコツ。
自分が、私がと「我」を張っていては何事も上手く行きません。素直な心で聞く耳を持ち話し合え る状況が大切です。現代の日本人は何か忘れているような気がしますが、あなたは如何に思いますか。
*徳不孤必有隣 (とくは こならず かならずりんあり)
自信を持ってやりとげよう 論語
この言葉は、徳のある人は孤立することはない、と言う意味です。
一生懸命学んだことや、苦労して身につけた技能が世間で評価されず、軽んじられるのはつらいものです。自分は間違っていないと思っても、評価されないことに焦るあまり、それまでの主義主張や信念を曲げて妥協してしまうこともあります。
でも、本当に正しいと信じるならば、妥協せずに努力を続けることが必要です。意思堅固に道を求め続けていれば、おのずから理解者は現れ、支持する人も出来ます。あなたは一人ではなく、支えてくれる人が必ずいます。
ただ自信を持って自分の信念のもとに生きてゆきましょう。
禅語 その10
「身心脱落」 (しんしんだつらく) 身心ともにさっぱりと 正法眼蔵(道元)
「脱落」は落ちこぼれとか、離脱する意味ではなく、一切のしがらみから脱
し、さっぱりした境地のことです。
道元の著「正法眼蔵」に、如浄禅師が「禅の修行には、焼香も礼拝も念仏
も懺悔も読経も不用。ただひたすら坐禅をすることが身心の脱落に通じ
る」と説いたと言います。
ひたすら坐禅し、身も心も一切の執着を離れた、自由で清々しい境地が
「身心脱落」なのです。欲しいもの方に入らない(求不得苦)、自分は他人
より損をしていると言った悩みは、他と比べる心と執着から生まれるもので
す。身心脱落とは、「わたしの身心」「他人の身心」という考え方を含め、一
切の執着から離れることを意味します。と説いています。
ここでは「執着心」について説いています。自分にだけ執着しているといろ
いろな問題が起こってきます。自分中心に物事を考えずに大きな心で捉え
ることが大切でしょう。
禅語 その9
「和光同塵」 わこう どうじん 慎みという美徳 老子
個性や自己主張をアピールして、自分を立派にみせることが現代流の生き方で、それが主流のようになっています。現代は少しでも他人よりすぐれ、自分の長所を磨き抜きん出ることが評価されているようです。
あからさまな自己主張の時代に失われゆくのが、謹みや謙虚さ、奥ゆかしさなどです。派手な光を放つことはないけど、いぶし銀のような深みのある人、ピリッと鋭い意見をさりげなく言えるような人は少なくなっています。
こんな時代だからこそ、見直したい言葉が「和光同塵」です。老子は「その光を和らげてその塵に同ず」と言いました。「和光」とは自分が勉学、修行によって得た道徳性や知性、才智の輝きを和らげ、顕(あらわ)にしないこと。「同塵」とは塵やゴミに汚れた現実世界に同化すること。聖人であっても、悟りを開いた禅師であっても、その学徳や才智を表面に出さず、俗塵の中にまみれて衆生済度をするという意味です。と記されています。
禅者のようにいかないまでも、私たちにも出来ることはあります。自分の行いを自慢せず、謙虚に奥ゆかしく、困った人や助けを必要としている人たちに、ささやかでも役に立つことをする。そんなところから始めてみましょう。
何か身につまされるような言葉「和光同塵」いい言葉ですね、私もそんなところから始めてみようと思います。
禅語 その8
*本来無一物 (ほんらい むいちもつ) 「何もない」ということ。
読んで字のごとく、人間は本来執着する一物もない、何も無い、一切空であり、絶対無であることを意味します。分別・相対的な観念を全くはさまない世界、一切のものから自由自在になった心境を言います。
この時代にこの心境になるには大変なことです。こんな心境に少しでも近づくには、何をすれば良いのか?「法」に従って「無」になることでしょう。悟りの心境でしょうね。
禅語 その7 苦しみを乗り越える
*寒時寒殺闍黎 (かんじは しゃりをかんさつし) 苦しみを受けとめる覚悟
難しい言葉ですが、闍黎(しゃり)とは僧の尊称だそうです。
「寒時寒殺闍黎 熱時熱殺闍黎」 (かんじは しゃりをかんさつし ねつじは しゃりをねつさつす)
という禅語です。
この「寒暑」は、寒さや暑さだけのことではなく、心の中の苦悩や煩悩も私達にとっての「寒暑」です。
苦しいとき、辛いとき、悲しいとき、その悩みを避けたり、一時逃れをするのは、寒いときに「寒い」と文句をいい、暑いときには「暑い」と愚痴るのと同じこと。
苦しいときこそ、その悩みを避けるのではなく、ありのままに受けとめる。
つらい事柄に「なりきる」ことによって、人は煩悩苦悩から解放されるという教えです。
辛い事をしっかり受けとめる勇気を持つことが、苦しみを乗り越えるためには必要です。
大変難しいことですが、いろいろと悩み多いこの時世において、これを乗り切るためには自分の現状をしっかり見て受けとめることが大切なのでしょう。八正道にある「正見」(しょうけん)の意味と同じではと私は思います。
*坐禅(ざぜん) 自分の心を見つめて静かに座る。
禅語について記載していますが、禅と言えば坐禅を思い浮かべますが、今回は坐禅について書きました。
坐禅の「坐」の字は土の上に人が向き合い、対話する形から成り立っています。対話するのは、自分ともう一人の別な自分、つまり心の中の自分、魂の自分です。
本来の自分と向き合って自問自答することこそが尊いのです。
自分を知ろうとするほど、嫌な思いをすることもあるかも知れません。でも、そうして人は強くなれるし、他人にも優しくなれるのです。と教えています。
又、座敷の「座」の字は「广」(まだれ)の中に坐と書きます。この、まだれは家・建物を意味します。よって「座敷」は家の中で敷物の上で向かい合って座ると言うことです。
皆さん、坐禅の経験はありますか。
たまには、一人静かに坐禅して自分を見つめることも大切かもしれません。
*心無罫礙(しんむ けいげ)
私達がよく耳にする「般若心経」の一節である。「心無罫礙」とは、心のわだかまりがない
こと。私達は心配事があれば心配に心を捉われてしまい、悲しいことがあば、悲しみに心を
奪われてしまうようである。そしていつも心のどこかにひっかかりを作って、くよくよ考え
込んでいる。その心のさまたげを「罫礙」という言葉で表現している。
「罫」とは魚を捉える網のこと、「礙」とはさまたげを意味し、私達の心が網にひっかかっ
てもつれた状態、私達は心配や悲しみに心を奪われなければいいのだが、実際問題として不
可能である。生きている人間である以上悲しみ苦しみはつきまとう。何か心配事があるとそ
のことが頭から離れない。夜もおちおち眠れない。ひどい場合はノイローゼになったりする。
だから心の「こだわり」「わだかまり」を捨てるように般若心経は教えている。
悲しみは悲しみとして受け止める。苦しみは苦しみとして受け止める。それが、「心無罫礙」
の説くところである。
悲しみ、苦しみはだれでも受ける。受けた心のダメージをどのように処理 していくのかが問
自己の宗教心をしっかりと確立している人は、きっと立ち直りは速いと思う。
私達は物事に「こだわりつつ」「こだわらない」心を学ばなければならない。心に「わだか
まり」「こだわり」を持たないで生きることは大変難しいことです。
しかし、「わだかまりや」「こだわり」を持っているとすべてに疑心暗鬼となってしまう
「先入観」や「わだかまり」を出来るだけ持たないように生きることが大切でしょう 。
*鬱病(うつびょう)の話
ある先生の鬱病についての講演を聴いてきました。最近、若い人から中高年にまで多くの鬱病の患者が増えているといいます。現に公務員の中にも増加傾向の話を聞いています。 急に登庁しなくなり電話の連絡もつかなく困っているとの話です。
講演を聴いていると鬱には、いろいろな原因が重なり発生すると言います。人間は誰でも欝病の要素は満ち合わせているといいます。それが何らかの原因で出てきてしまうと言います。結局は、鬱病の根本的な原因は現代医学においても、はっきりと分からないのが 現状のようです。
病院では専門の先生が、直接患者と直面しカウンセリングを行い、薬を処方しているのが現状のようです。結局、長期にわたり治療するほかないようです。
私のところへも鬱病の相談は多いです。病院でのカウンセリングの内容を聞きますと、先ず「よく寝むれますか」「食事はどうですか」「気分はどうですか」などと日常の状況を聞かれるそうです。何も楽しい話は無いとのことです。
カウンセリングは、相手の心や気持を和らげることではないかと思いますが。
では、家では話も笑いもせず何もしないで部屋に閉じこもり、音楽やテレビを聞いたり見たりしてゴロゴロしている鬱の方が、私のところへ来られますと、ちゃんと話をしますし、笑顔も出ます。なぜなのか分かりません。訪ねてこられたときと、帰るときの顔付きがまったく違ってお帰りになります。このような方は先ず安心です。必ず近いうちに病から開放さ
れます。私自身もビックリしています。
今まで何人もの方が鬱病の相談に見えましたが、全員立ち治っています。私は私なりに、師より教えて頂いた話をするだけですが、この話は、鬱病になる原因を簡単に話すことなのです。現代の医学者や科学者は絶対信用しないような話ですが、師のところへは病院の先生や有名な病院の看護士さんたちが定期的に通って話を聞きに来ていました。
私のところに来て、急に快方に向かって治ってしまった患者さんに対して、最近は先生が疑問を持ち「何かしてきましたか」と聞くそうです。私は聞かれても「何もしていません」 と答えるように言っていますので患者さんはその通り答えているようです。
このことは、他の病気の方の場合も同じで必ず急に快方に向かってゆくと聞かれるそうです。「何かあるんではないか?」と先生方も思っているのではないでしょうか。実際に何度も先生から問われた人もおります。
人間は宇宙の中の自然の生き物ですから、宇宙の真理の中に生かされているのです。 その真理を知り、その教えに従って行動すれば良いわけで、何も難しいことはありません。
その教えに中に、さまざまな問題の原因が記されているので、それを教えてあげることによって問題は解決するのです。
まだまだ未熟な自分ですが、師の教えを伝えながら少しでも皆さんのために貢献できるようこれからも努力するつもりです。 いつでもお話を伺いますのでご遠慮なくどうぞ。
担当者:ライフアドバイザー
あかおぎ ひろし
人は誰も幸せになるために生まれてきたのです。
自分や家族のいろいろなお悩みの相談を受けています。
汝、悩むことなかれ。どんな人でも悩みの無い人は居ません。
早く心と気持ちを軽くして、前を向いて生きて行きましょう。
多くの方が心と気持ちを軽くして幸せになっています。
どんなことでもご一報ください、無料で相談させて頂いています。
〒310-0836
茨城県水戸市元吉田町1745-15