香厳上樹(こうげんじょうじゅ)ピンチの時は

香厳という和尚さんが出した難問です。
の禅語は、絶体絶命のピンチの時こそ頭で考えるなと教えてくれています。
その時こそ、自分が一番やりたいことをやり抜け、というのです。
自分が今やっていることに自信を持って、ピンチに立ち向かえと言っています。

 

表札ごとに世界あり

令和6年2月23日(金)友引 天皇誕生日 冷たい雪・雨

別に是れ一壺の天」(べつにこれいっこのてん」
ひとつひとつの家が「世界」を作り上げています。その家特有の価値観があって、その家のけじめがあって、みそ汁の味もそれぞれ違う。
一つの壺の中に「世界」があって、別の壺には別の「世界」があることを教えてくれる禅語です。今、自分が入っている壺を客観視してみることが出来たら・・・・・・。
素晴らしく見えれば幸い。もし、今いる壺にばかばかしい諍が起きているようなら、心機一転、別の壺に飛び込む事だって出来るんだよ、と勇気づけてくれる禅語です。
そうして幸せを掴んだ人がいるそうです。

 

仏性(ぶっしょう)

「誰にでも仏性がある」と言っています。「仏性」とは人間の完成された状態で、人とは仏の未完成の姿です。
「平家物語」で白拍子(歌姫)の妓王が歌うように、「仏も昔は凡夫なり 我らもついには仏なり いずれも仏性具せるみを 隔つるのみこそ悲しけれ」と詠っています。

 

「直而和」(直にして和)

令和6年1月27日(土)仏滅 晴れ

お寺さんで戴いた小冊子を呼んでいるとこの禅語が表紙裏に記してありました。
意味は「柔和にして正直であれ」という意味だそうです。
又、中文には「登竜門」の意味は、数多くの関門を乗り越える事によって自らが新たな境地に至ることが出来るということから、立身出世の為の難関をいう。
仏教では龍は仏法を守護する「天龍八部衆」の一つとされ、恵みの雨をもたらす水神とされています。釈迦が生誕した際は二匹の龍が清浄水を濯ぎ、前述の釈迦成道の折には七日間の降雨にて釈迦の身を覆い守ったと説かれている他、多くの逸話があります。と記されています。

行到水窮處(ゆきてはいたるみずのきわまるところ)
いつのまにかたどり着く

子供たちはすぐ「なんで」「どうして」と聞きたがって、答えていると調子に乗って「だからなんで」「だからどうして」。やがてうるさいわねえと追い返される。あの質問攻めにどこまでもつき合ってみたことはありますか。最後に「わかった!」と言わせたことがありますか?
せせらぎの音と戯れながら、山の中を気のむくままに歩いていたら水源にたどり着いてしまったと言うこの言葉。でも含んでいる意味は、私たちに無心の醍醐味を味あわせてくれます。水源を探そうと躍起になって歩いていた時は見つからなかったのに、力が抜けたとたん
物事の本質がひょいとつかめてしまう事があります。
こどもの「なんで」という質問も、言葉で抑え込もうとしているうちは「なんで」が続くもの。体験で納得させてあげませんか。 と書いてありました。参考にどうぞ・・・。

百花春至って誰が為に開く

令和5年12月21日(木)晴れ

「ひゃっかはるいたってだれがためにひらく」という言葉です。
平田精耕老師の「禅語辞典 より良き人生への二百五十の言葉」の中で解説しています。
「いったい、花は何のために咲くのでしょうか。いうまでもなく、誰の為でもなく、また誰に見せようとしているわけではありません。と言って自分のためでも人のためでもありません。ただありのまま咲いているのです。自分の全生命を遺憾なく発揮して、精一杯にただ咲いているのです。」
私たちが花を見て「きれいだな」と感じるのは、「自分の全生命を遺憾なく発揮して、精一杯に咲いている」その姿に心を動かされているのかもしれません。

 

お寺さんで戴いた小冊子を

令和5年12月19日(火)

先日マミーの墓参りをした時に、お寺さんで戴きました小冊子(法光)を読んでみました。
小冊子は臨済宗の方々のお寺の住職が書いたものです。中に禅語が記されていました。
「生死無常」という禅語です。今を生きると言う事に目覚める事が仏教の根本理念です。と書いてあり、「即今只今」という言葉がありました。どんな時でも、今を懸命に生きてゆくことが大切である。という意味だそうです。「朝の来ない夜はない」とは、希望の明日が来ることだけを願う言葉ではなく、いかに苦しい日があったとしても、「今、生かされている命尊し」と「即今只今」のように、今を大切に生きていくと言う事なのです。
今を生きる活力を明日へつなげていく為に、今を力強く生き抜いていくことを心から願います。と締めくくられていました。 瑞巌寺専門道場師家 吉田道彦さんの言葉でした。

松直棘曲まつはなおくいばらはまがれり)
まっすぐな人と曲がった人

松はまっすぐ育ち、イバラは曲がりくねって育ちます。どちらもそれが自然です。互いを真似することはないし、自分の姿を恥じる事もない。ましてやどちらが上でも下でもない。
松は松。棘は棘。当たり前の話です。まっすぐに育つ松だけなら世の中はつまらない。曲がったイバラだけでも景色にならない。生きていて飽きない宇宙は、さまざまな個性が存在しているからです。それぞれが自分の個性を偽らず遠慮せず、のびのびと生きてこそ世界は豊と言えるでしょう。ところで、あなたはどんな個性を持っていますか?
人を真似たり、人と比べたりすることなく、あなた自身の個性を存分に発揮していますか、どんな顔をしているのか、いまさらながら鏡をよく見て、自分の声をよく聞いて、心の反応をつぶさに感じる事で自分を知ることが出来たら、今日からあなたも自然に生きてみませんか。   と書いてありました。

 

 

百雑砕(ひゃくざつさい) こっぱみじん
令和5年10月24日

百雑砕 こっぱみじん  心の中のモヤモヤした煩悩をこっぱみじんに打ち砕いてしまえ!
と言う事です。禅のお坊さんの厳しい一言。捨てるだけではだめ、もっと過激に粉々にです。こっぱみじんを実行するのは、あなたを悩ませ迷わせ惑わせている煩悩が対象です。
嫉妬する心。人をうらやましいと思う心。どうしても手放したくないと執着する心。人に尊敬されたいと願う心。人を差別する心。人のせいにする心。こんな心を思いっきり破壊してください。 と言っています。破壊出来たら心がスッキリするでしょうね。(^_^)v

担雪填井(ゆきをになってせいをうずむ)

令和5年10月18日(水)赤口 秋晴れ

朝晩の冷え込みが強くなってきました。昼間は暖かな日になりますね。(^^)/ 
この禅語の意味は、「無駄な事はお嫌いですか」と言っています。
無駄話はしない。無駄な物は食べない。無駄な人とは付き合わない。あなたの周囲から無駄な事をなくしたら、まことに効率の良い人生になるでしょう。 しかし、なんだかつまらない。これまでの人生を振り返ってみて下さい。あの無駄な長旅で妻に出会い、あの無駄だと思った仕事で仲間の優しさに触れ、病気という無駄の骨頂でやっと人間の弱さを知り、破産してなお笑顔で迎えてくれた母の愛に涙した。
井戸を掘って行きで埋めようとするような無駄な仕事。無駄な努力。それは確かに手柄を求めた努力ではなく、結果だけを狙った努力でもない。この禅語は、そんな無駄な努力ができる事こそ大切だと言います。

 

 

悟無好悪(さとればこうおなし)
何にも縛られずに判断しよう

令和5年10月11日(水)仏滅

あるがままを認められるようになったら、好き嫌いなどなくなるという禅語です。
先入観で決めるのはもったいない。最初に好き嫌いを決めつけてしまうのは、世界を狭くしてしまう事になりかねません。人だけではありません。食べず嫌いはその際たるもの。なぜ味わったこともないのに嫌いなどと言えるのですか。だから先入観で決めるのはもったいないです。  へたな判断をするよりも、先ずは会ってみたらいかがでしょう。どんな人か、どんなものか、どんな味か。前評判に縛られずに、輪郭も中身も納得するまで観察する事。すると、その存在そのものを認めることが出来、好き嫌いなどなくなって世界がグンと広くなるというわけです。

2023-10-07

任運騰騰(にんぬんとうとう)

運に任せればよい、悩みを探しに出かけない。
令和5年10月7日(土)秋晴れ

「ケ・セラ・セラ」も禅語と言いたいところですが、これから起きる事はケ・セラ・セラ。なるようになります。これはスペイン語。
風にまかせて二ンヌン・トウトウ。運に任せていればよし。こちらは禅語。
明日の事であろうと、十年後のことであろうと、将来の事に思いをめぐらせて悩んでいる人のいかに多いことか。禅の教えは、今を生きよと言っています。今を精一杯生きる。今日を充実して生きる。その積み重ねが将来となるのです。将来を考えるより、今自分が取り組んでいる事は何なのか。それは意味のある事なのか、やりかあてはめるとたは間違ってないのか。
どうです?今の事だけで確認する事は山ほどあるのに、将来のことまで考えていられないはず。わざわざ悩みを探しに行くなんてやめておきましょう。明日は明日の風が吹く。
と言っています。自分にあてはめるとどうでしょうか?

下載清風(かさいのせいふう)

令和5年10月3日

下載清風という言葉の意味は、「積み荷を降ろして軽々と行こう」という意味です。積み荷を降ろして軽くなった船が、清風に乗って軽やかに航海する、という言葉です。
両手いっぱい、肩から下げた荷物も背中に背負った荷物も、全部下ろした気持ちよさ。飛ぶように歩けるその時の気持ちは、誰でも経験したことがあるでしょう。この禅語はその事を教えてくれています。そう、下ろすのは心の荷物。
心の中の迷いやこだわり、嫉妬心や心配や執着心も、ぜ~んぶ港に降ろししまったらどんなに気持ちがいいものかと。もう、余計なものは積まないようにしよう。いつの間に心にあんなに荷物をしょい込んでしまったんだろう。今度荷物に出会ったら、目をつむらずに向き合って断ろう。二つに一つの選択をせまられたら、二つとも捨ててしまおう。この船以外に生きていくのに必要なものなどないはずだ。船が健やかなら人生は自然の清風が運んでくれるはず。と記されています。心に必要なもの以外は捨てて気軽になろうということですね。

 

 

2023-10-01

共存

令和5年10月1日(日)曇後雨

私たちは社会と共存して生活をしています。そして、常に人や社会と接しているのです。
禅の教えでは、同じ場所に座して留まるのではなくて、そこから一歩社会に飛び出し、衆生済度(人々を救う)すると言う事が根本です。これは、私たちが、自分だけの世界を生きているのではなく、社会と一つであり共存しているからです。
「灰頭土面」(はいとうどめん)「土をまぶし灰を塗って笑いあざとに満つ」という言葉は、灰まみれ、泥だらけになりながら懸命に生きていくという意味があります。懸命に生きる中で、自ら苦しみを知り、相手の苦しみや悲しみを共にすることが出来るのだと思います。
そして、「私」という執着を絶した時の気付きというのは、何時も身近な生活の中にあります。「ハッと」気づく体験から心安らぐ時間を大切にしましょう。と書かれています。

 

無生死に気づくこと

令和5年9月28日(木)先負 猛暑日。五黄土星中宮日 つちのとうし

禅語を呼んでいるといろいろな教えに行きあたります。今回の禅語は、お釈迦様の教えです。お釈迦様は、「私たちは誰もが仏であり、悟りの心と仏心を持っている。しかし、執着する心があるから、本来持っている悟りの世界が見えない。」と説かれています。そして、迷いや執着などの心が生じなければ、私たちは、常識的な分別を超え、何事にも囚われることなく、自由自在な働きを謳歌できるということです。
私たちは、日常の生活の中でどうしても様々な物事に左右されてしまいます。しかし、私という我(が)や、執着の心を捨てた時に、生きるや死ぬという生死を離れた世界が現れ、自分自身というものに気付くことが出来るのだと思います。

隠元禅師

中国明代の禅僧・黄檗宗の開祖

隠元禅師が説かれた教えに「脚下無私皆浄土」(脚下無私なれば、皆じょうど)という言葉があります。これは ”囚われのない私であるならば、心のやすらぎ、そのものである” と説いています。
隠元禅師と居士のやり取りです。
居士「慈悲の心を持って、生死無き悟りの意思をお示しください」
禅師「足元に私などというものが無くなれば、みんな浄土の世界なのです」
足元とは、自分自身のことです。その自分自身に「私」という囚われや執着が無くなれば、それは浄土の世界、すなわち、やすらぎの世界なのです」と答えました。

禅語です。寺で貰った小冊子に

令和5年9月23日(土)仏滅

彼岸の中日です。墓参りに行って来ました。社務所で線香を買った時に小冊子秋の彼岸号を頂きました。帰宅して紐解いてみると記されていました。「秋彼岸」の題で彼岸とは、此岸(しがん・現実の迷いの世界)と川を隔てた向こう岸のことであり、”悟りの世界”を意味します。
私たちは人生で思うようにいかない事にぶつかると、身勝手に自分の都合の良いように判断し、その結果迷い苦しみながら生きています。
その迷いの中に隠されている、ものごとをありのままに受け入れて分け隔てなく他者に手を差し伸べることができる「仏心」を、私たちは皆生まれながらに具えていると、禅では説きます。

春秋に1週間ずつの彼岸期間中は、仏法を聞き行いを正しくするために設けられています。禅の教えを学び、自ら彼岸に至る目的を成就する一助にし、またこの時期に先祖代々の霊魂をお祭りして、ご先祖様も彼岸に至らしめるとする良き縁と致しましょう。  以上のように記されていました。

 

達磨安心(だるまあんしん)

不安のモト

令和5年9月20日(水)先勝 晴れ時々雷雨 四緑木星中宮日 かのとみ 彼岸入り

今日は彼岸の入りです。急に雨が降って来たりしました。
達磨安心と言う禅語です。安心しきった幸せそうな赤ちゃんの寝顔。そんな心境で過ごしたい。でも、あなたのその顔、なんですか。いくつもの不安を抱えて、口はへの字に、眉間に縦じわ。何がそんなに不安ですか?
不安を亡くす方法を達磨大師に聞いたら、不安の種を持って来いと言われた。探したがなかった。
不安がないならそれこそ安心じゃないか、という話がこの言葉の由来です。
今でも同じです。不安を消す方法は、不安の元を探すことから始まります。あなたの不安さがし。
コツは不安の本当のモトのモトまで突進んでいくこと。不安の種の一歩手前で止まってしまうと、不安が不安を呼んでしまう。こう記されています。貴方も不安をだまされたと思ってこの通り解消してみませんか。(^^)/

 

竹箆竹箆にあらず

読み方(しっぺいはしっぺいにあらず) 意味 姿かたちにとらわれず

令和5年9月15日(金)友引 天気不安定 九紫火星中宮日 ひのえね

禅の修行に使われる長い竹のへらのようなものをしっぺいと言います。この竹箆を題材にして修行僧に質問したのがこの禅語です。竹箆には違いないけれど、竹箆として使わなければただの竹の棒である。
ではこれはただの竹かと言えばそうではない。現在の形はまさに竹箆の形でああるから竹箆である。
ではこれは何か?般若心経を思い出してください。色即是空。空即是色。形あるものは、即ち空である。空は、即ち形である。竹箆は、即ち何物でもない。何物でもないそれは竹箆の形である。
「姿かたちにとらわれず、物事の本質を見る目を忘れるな」という教訓です。

2023-08-08

あなたが夏休み中にして欲しい事。

令和5年8月8日(火)先負 曇りのち晴れ

夏休み最中ですが、皆さん子供さんとどう対処してますか?いろいろ大変ですね。(-_-;)
親としてしてもらいたい事は、それはしっかり子供さんを抱きしめてあげて下さい。抱きしめる事によって子供さんが変わりますよ。子供は真直ぐ素直に育てることが大切ですよ。又、昔から子供は親の背中を見て育つと言います。貴方の背中は大丈夫ですか?

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担当者:ライフアドバイザー
あかおぎ ひろし

人は誰も幸せになるために生まれてきたのです。
自分や家族のいろいろなお悩みの相談を受けています。
汝、悩むことなかれ。どんな人でも悩みの無い人は居ません。
早く心と気持ちを軽くして、前を向いて生きて行きましょう。
多くの方が心と気持ちを軽くして幸せになっています。
どんなことでもご一報ください、無料で相談させて頂いています。