結果自然成(けっかじねんになる)
じっと待てますか

やれるだけのことを精一杯やったら、あとは自然に果実が実るのを待っていればいいのです。実が熟すのをじっと待てないのは、それまでの精一杯が足りなかったからかもしれません。土も耕さず、種も蒔かず、水もやらずに「芽が出ない」はないでしょう。練習もせずコーチの言葉も聞かないで「なんで金メダルを取れないの?」なんて悩んでいませんか?
結果は自然に成るもの。金メダルが取れなかったのもまた、自然の結果だったのです。やるだけやったら思い悩むことなし。この気持ちのよさは格別です。

 

 

 

 

山僧活計茶三畝 漁夫生涯竹一竿

さんそうがかっけいちゃさんぼ  ぎょふのしょがいたけいっかん

「漁夫生涯竹一竿」これさえあれば生きていけるというモノ。
この禅語では、漁夫は生計を立てるのに釣竿が一本だけあればいいと言っています。あなたにとって「これさえあればいい」というのは何でしょう。ちなみにこの言葉と対になっているのは「三僧活計茶三畝」。お坊さんは、小さな茶畑があればそれで暮らしていけるというわけです。肩書きとか華美な袈裟や高価な道具は、本来無用。
生計を立てる最低限を知ったら、物欲に惑わされず、余計な財産を持たずに自由の境地でのびのびと生きていけそうです。
ぜひ、あなたにとっての「釣り竿」をみつけて。

 

随處作主(ずいしょにしゅとなる)

自分からすすんで

「随処作主」とは、どんな場所でもどんな時でも、いつでも主であれということ。片足を突っ込むのではなく、身体の軸ごと移動して、ものごとに全体重を投入する姿勢です。いい時ばかりではなく、悪い時もどこでも主人公でいてください。

騎牛求牛うしにのってうしをもとむ)
求めるものはあなたの手にある

誰ですか?牛に乗っていながら牛に乗りたいという人は。
誰ですか?給料が良くて、社員のレベルが高くて、自分の能力を正しく評価してくれて、将来有望な会社に転職したいと探している人は・・・・。それは今勤めている会社じゃないですか? 誰ですか?美人に生まれたかったといつも嘆いている人は・・・・。自分の素肌と笑顔が美しいことに気づいていませんね。
求めるものは、外でなく内にある。自分の牛に、もう一度愛情を注ぐと思い出せます。いい牛だったこと、いい牛に乗っていたこと。

 

以心伝心(いしんでんしん)

令和7年7月12日(土)大安 晴れ曇り 九紫火星中宮日 みづのえ うま

今日は過ごし易かったです。昨日、預かったトマトの木が、肥料不足で葉の色が良くないので連絡しました。電話が終わらないうちに奥様が肥料を持参しました。早速肥料を上げました。奥様は、トマトのなんであるかを理解していません。
今朝も鉢植えに水を上げました。
何時になったら膝を就くことが出来るのでしょうか?お医者さんは一生お座りやしゃがむ事は出来ないと言っていますが、リハビリ運動をして必ず正常になれるよう頑張ります。(>_<)
このまま、涼しくなってくれると嬉しいです。

 

 

雲収山岳青(くもおさまってさんがくあおし)
自分がはっきり見えてくる

禅語は「あなたはあなたらしく、そのままでいい」と教えてくれます。「求めるものはすでにその手のなかにある」ともいう。おかしい。そんなに簡単なわけはない。私が本当に求めているのは何だったのかしら。これまた雲がかかって求めるものが何だか見えない。雲が切れて青々とした山が現れるように「私」の本来の姿をクッキリ見たいものです。

 

 

不識(ふしき) 

知る必要もない

そんなことどうだっていいじゃないか。
知ってるとか知らないとか、偉いとか偉くないとか、大卒だとか中卒だとか、男か女か、背が高いとか低いとか、体重が重いだとか軽いとか、既婚者だとかバツイチだとか、あげく年収がいくらだとか。そんなことが私と言う人間を判断するのに必要な事ですか。「不識」とは、知らなくていい。知ってどうする。知る必要もない。そんなレベルを超えたところに「不識」があります。

花枝自短長(かしおのずからたんちょう)
違いを認めて

この「禅語より」の美しく生きる、は今回までです。次回からは「自分を見抜く」を記載します。
同じ地球にいながら、同じ太陽にてらされながら、キリストに祈る人、アラーの神を仰ぐ人、念仏を唱える人、そして座禅を組む人。いろいろな人が居てこそ地球は、バランスを保ち、豊かに調和しているのです。それこそが禅語でいう、「花枝自ら短長」です。同じ樹でありながら花の枝には短いもの、長いものもある。それぞれの枝に違いがあるからこそ全体の姿が美しく整い、バランスがとれる。この自然の摂理は、人がそれぞれに、個性を持って生きていいことを教えてくれます。地球の全員が同じだったらどんなに恐ろしくつまらないか、歴史が証明いています。

 

 


 

紅爐上一点雪(こうろじょういってんのゆき)

信念の人

あなたが赤々と燃える信念の人であったなら、ひとひらの美しい誘惑がが舞ってきても一瞬のうちに消えてなくなってしまうというシーン。一点の雪は、その痕跡さえ残すことができません。あなた自身が真から燃えるしか、誘惑に勝つ方法はありません。  (碧巌録)

看々臘月盡(かんかんろうげつじん)

命には終わりがある

テレビドラマでは毎日のように人が死んでいきます。ニュースでは殺人事件、新聞は訃報を伝えてくれます。そしてたまに身近な人の葬儀。死んでその人の一生が終わる。このことから目をそらさずに、「命に限りがあることを良く見ていなさい」と言う意味の禅語です。臘月とは12月(陰暦)のことで、一年が終わるのと命が尽きるのをかぶせています。一日一日、命は尽きていく。

落花流水を送る
もてなしの極意

花びらは、風に舞い散ると、清流がどこかへ連れて行ってくれます。
清流は、ただただ流れ、落ちてきた花びらを運んでくれます。
もてなされる人ともてなす人の関係に、こんな無心が欲しいところ。
どうだ美味しいだろうという押しつけと、誉められるための作為があっては興醒めです。もてなされる方が不遜では醜いし、謙遜しすぎてもつまらない。落花と流水の関係が理想です。

閑古錐(かんこすい)
鋭いだけでは

職人さんの道具は、持つ指の形にへこみが出来て黒光りした何とも味のあるもの。
これは世界共通しているかもしれません。
「閑古錐」はそんな道具。使い込んで使い込んで先が丸くなった「きり」の事です。ただ鋭いだけで攻めていた年月を経て、今は無駄な動きも一切必要なく、落ち着き、読み深く、しかし悟りの心境さえ忘れて、若い者の仕事ぶりを見て穏やかに微笑む老人に似ています。そんな先が丸くなった「きり」には迫力さえあって、尖っていなくても目的は充分に果たせそうです。

花は無心にして蝶を招く
蝶は無心にして花を尋ねる

はなはむしんにしてちょうをまねく・ちょうはむしんにしてはなをたずねる と読む。
無心でする仕事。これが一番自然で美しく、長続きして疲れず、世のためになり実も結びます。蝶は、「花粉運搬およびそれによる受精補助」で花畑業界に貢献しよう、と思っているわけではありません。花は「蜜を餌に花粉をただで運ばせよう・・・」などとは思っていません。人は、生まれた時に無心で、育つほどに無心が失われていくのかもしれません。だから生まれた時の無心をめざして修行します。

一以貫之(いつもってこれをつらぬく)
やわらかい心で、一貫して変わらず道を進むこと。

柔軟な心と謙虚な態度があってこそ、一つのことが貫けます。ゆずれること、ゆずれないことの選択は、やわらかい心で。

 

雲門の餅(うんもんのへい)
いい話と記憶

雲門禅師が、仏も超えたと評判の玄々微妙と言う人に会った来た次の日、小僧さんが話に興味津々に聞きました。「どんなお話でしたか?」すると禅師は「胡餅」のひとこと。「ありがたい話はその時食べた餅と一緒に吞み込んでしまったよ」と言うのです。あら、いじわる、と思いきや、もしかしたら、「そんな話を聞くより、お前には今やるべきことがあるだろう」と言いたかったので煙に巻いたのかも知れません。こうして出来た禅語が「雲門餅」です。
おふくろさんの味噌汁の味は、忘れていた優しい語り口を蘇えらせてくれます。

咄々々 (とつとつとつ)
あら、まあ
 

驚きと感嘆が入り混じった時の声です。驚くこと、感動することは、心をやわらかくして若いエネルギーを増やします。千利休は、お茶会を開くたびに趣向をこらし、桜の花びらを散らせてみたり、路地のもみじひとつ、お客様の「まあつ」と驚く瞬間のために工夫したと言われています。小さな驚きで、お客様の心がほぐれます。感動して驚くことが日常にあふれたら毎日が楽しく新鮮です。そのためには、出会いとチャレンジが不可欠。

春水満四澤(しゅんすいしたくにみつ)

昨日は恐かったあの人も

春になって、雪解け水が沢を満たしていく。
冬は雪の姿、春は水となって、季節ごとの姿に執着なく地上に恵みをもたらします。まるで、厳格な当主からやさしい隠居となり、孫と遊ぶ好々爺のようです。
当主は一家を養う責任を一身に引き受け、収入の途切れることを許されず、世に敵の多いのを承知して子供たちに生業を教える。厳しくなるのはあたりまえです。
当主の愛情は冬の雪のよう。そして子供が修行を終えたころ、当主は世代交代の時期を悟ります。
今度は隠居になった身で、なりたての未熟な当主を支えるべく微笑みをたたえて、孫たちと戯れて雪解け水のように一家を優しさで潤していくのです。

光陰矢如 宇宙の中のあなたの一生

(こういんやのごとし)

光と陰とは、太陽と月のこと。プラネタリウムで一昼夜をぐるぐるっと早回ししたようなダイナミックな表現です。
矢を放ったごとく、めくるめく過ぎてゆく毎日。何万年たっても一日も後もどりすることはありません。ただ太陽は急ぐ様子もなく、なにくわぬ顔で輝いています。同じように月は音もたてずあわてず、美しい満ち欠けを見せてくれます。こんな天体のリズムに波乗りのように乗ってしまいましょう。自分の小さな考えの中で自転して、からまわりした時間を過ごしてしまわないように。一日一度は空を見上げて、天体のリズムを観じてみてください。決して、「急げ急げ」とは言っていないはず。

一切衆生を救う心を起こすべし
みんな仏に守られて生きているのだ。

この章で「法華経」の解説は終了です。長い間有難う御座いました。
真理を悟り、それを日常行じている普賢菩薩が、東方から、多くの菩薩たちと一緒に、娑婆世界にやってくる。一行の通る国々は、喜びにあふれ、蓮華の華を雨のように降らせて、歓迎する。娑婆世界へ着くと、霊鷲山の釈尊の所にやってきて、最高の礼を尽くしてお願いする。釈尊は、はっきりと答える。もしも、善男子・善女人が、四つの事を成就すれば、如来が亡くなった後でも、この「法華経」の真の功徳得ることが出来ます。

第一には、諸仏に護念せられること。
第二には諸々の読本を植えること。
第三には正定聚に入ること。
第四には一切衆生を救う心を起こすこと。
四方を守れば人生は明るい。
第一には、
諸々の仏に護念されるようになることです。自分は仏に護られているのだという絶対の信念をもつこと。
第二にはいろいろな徳がありますが、その徳の元を、自分の身に植えることです。悟りを得るための根本となる善を行う心を、植え育てていく事です。
第三には、正しい信仰をもつ人々の仲間に入ることです。
第四には、一切衆生救おうという心を起こすことです。自分だけ救われたらそれでよいのだと思っていては、小乗の段階です。大乗の心のならなくてはなりません。

どんな不幸のどん底にあっても、「自分たちは諸々の仏たちにしっかりと護られているのだ」と信じている人は、必ずはい上がって立派になる。人間は弱いものだ。弱いからこそ、信念をもたなくてはならない。相手を先に仏になれるよう手助けし、自分は後でいいという思想が、大乗仏教の基本あること知らなくてはならない。

 以上で「法華経」の解説は終わりです。長いこと愛読を有難う御座いました。私も大変  勉強になりました。(^^)/

人は、信じられると悪い道に入ることはできなくなる

この章は要点だけにします。「法華経」を流布する事が記されています。
人は、信じてもらえれば、道をはずすことはない。

お問合せ・ご相談 

お電話でのお問合せ・ご相談はこちら
090-8846-4589

担当者:ライフアドバイザー
あかおぎ ひろし

人は誰も幸せになるために生まれてきたのです。
自分や家族のいろいろなお悩みの相談を受けています。
汝、悩むことなかれ。どんな人でも悩みの無い人は居ません。
早く心と気持ちを軽くして、前を向いて生きて行きましょう。
多くの方が心と気持ちを軽くして幸せになっています。
どんなことでもご一報ください、無料で相談させて頂いています。