鏡を見る
"鏡”を見ることで、もう一人の自分にめぐり合う

人類の文化のはじまりは,火と鏡の用い方と効用を知ったところにあるようですが、きわめて興味を覚えます。日本の神話の中の話で、天照大神(あまてらすおおみのかみ)が、お孫さんのニニギノミコトに鏡を与えて「鏡を見ること、われを見るが如くせよ」と語られたという日本建国の神話にあります。祖母や親に会いたくなったら鏡をご覧、との愛情を感じます。鏡を見るのは、祖先からの精神的系譜の上に自分を見つめることでもあるのです。鏡は単なる家具ではない。写る映像は偶像ではないでしょう。鏡は自分を知り、自分を修正するだけではなく、自分の中の、もう一人の自分のはたらきを教えてくれるのではありませんか。よって、鏡を見ることは、自分の容姿を正すとともに、もう一人の自分にめぐり合う大切な縁になるのです。
また、釈尊と同じく、私たちも仏になれる可能性(仏性)を持っているのですから、釈尊の悟りの象徴の仏像(画)を礼拝するのは、仏性という、自分の中のもう一人の自分を対象として拝むのです。いわば、自分の中に内在するもう一人のの自分を拝んで、自分を完成するための実践が、信心とも修行とも呼ばれるのです。おもえば、鏡台に向かって化粧を終え、自分を完成したと喜ぶのも”化城”です。本当の自分をもっと美しくしようと思い立つのは、真実を求めて、小さな現実の喜びから立ち上がることです。

鏡を見る
自分を見ること

ブッタとは真実に目覚め、真理をさとった人がブッタ(覚者)です。もともとは釈尊個人を讃える尊称ですが、大乗仏教の思想では、誰もがブッタになれる可能性(仏性)を持っているとの認識から、普通名詞的に覚者一般を指して言うようになりました。
法を中心に、法を「信」の対象とするのが大乗仏教の思想で、法華経もその名が示すように、法(仏法)の信心を離れて法華経はありません。
鏡を見ると、自分の顔が写って見えます。写って見えるのは自分の顔の表情だけではありません。人相というように、自分では見えない自分の心のたたずまいも、鏡に映しだされるのです。つまり、鏡を見る動作は、本当の意味で自分に出会うことであり、自分自身を知ることです。さらに鏡を見ることは、鏡に見られているのだと、鏡の見方を深めることもできるでしょう。鏡に映るのは間違いなく自分の容姿です。自分の容姿を「自分である」と確認するもう一人の自分とはどのようなものであるか、また、その「もう一人の自分」はどこにいるのかを学ぶのが、実は、仏道を学ぶことに他ならないのです。

古代インド人が考えた「永遠」の表現法
刧(こう)

 

「刧」とは日本語で会同すると「永遠」・「無限」の時間を「刧」という一つの単位として考えていたのが、古代インドの数の思想のように思えます。
何を基準にしたかは不明ですが、「一刧」を人間界の四十三億二千万年と算定しています。日本人なら「永遠・永久・無限」などと簡単に言い表します。しかし、古代インド人は、そうした抽象的表現では不満で、どこまでも数字で具体的に表さないと承知できないのです。
囲碁の世界も仏教思想にあるようです。「刧争い」といいます。碁盤の面のは、十九本の線が刻まれていますが、それによって十八の空間が存在します。そして、この十八は、人間存在の十八の構成要素(六根・六境・六蔵)の「十八界」あるいは「十八種の妄想(成仏を妨げる執念や執着)」を示すといいます。白・黒の碁石は、人間の善行・悪行が交互に行為される事実の象徴です。それらを総合すると「刧争い」の意味が一段とはっきりするでしょう。


 

絶えまなき向上心のすすめ
小成に甘んずることなく、より大きな目標に達するために

「三草二木の喩」につづく「化城の喩」は、衆生の功利的な信仰を、永遠の真理を求める大きな信心に導こうーーとの願いを示すもので、釈尊自身がキャラバンの隊長として、金儲けを目論むたくさんの隊員を連れて、旅に出ることから始まります。
その目指すところは、人間完成への道、すなわち仏道を歩むのに、行先は長いし、時には険しい路にも出会わなければならない。目的を達するため、よき教えを聞いて、よく困難に耐えるようにーーーというものです。これも喩話(たとえばなし)でキャラバン隊の人達は我々のことです。


 

 

10代遡ると何人のご先祖様がいるでしょう?

令和6年11月5日(火)曇り 友引

あなたは今、生かされていることを知っていますか。現状に生を受けて生きていることを実感してください。10代遡ると何人のご先祖様がいるか?ご存じですか?
それは、1024人です。これを知っていますか?  我々はこれだけのご先祖様のDNAを引き継いでいます。何代か前に、どんなご先祖様が居たのかも分かりません。ご先祖様が居なかったらこの世に存在しないのです。生きている事に感謝をして、ご先祖様にも感謝の気持ちを持ちましょう。

 

法華経の世界

「南無妙法蓮華経」の唱題に込められた真実とは

法華経の説く諸法実相の思想によれば、宇宙に存在する全てのものが、そのままさとりの当体を示している。すなわち「妙法」です。したがって、山に鳴く鳥の声も、野に咲く花も、みなさとりのことばーーー真言でないものはありません。ゆえに我々凡夫も「南無妙法蓮華経」と法華経の経題を唱えるなら、自然に仏のさとりの知恵と世を救う慈悲の徳とが、譲り与えられると教えます。
要は、諸法(もろもろの現象)を実相(真実の姿)と見えるように、私たちの心の眼が開かれると、この世に存在する差別の実体が、そのまま平等の価値を具足しているのだという事実に、はっきりと気づくことが出来ます。そして「三草二木」の比喩が、単なる比喩でなく、真実そのものの姿であるのに気が付くでありましょう。ーーーーー これで薬草喩品は閉じられています。

心を込めた”ありがとう”はさとりの言葉

法華経には「陀羅尼品」(だらにほん)というものがあります。が、法華経では「陀羅尼呪」と標示しています。「呪」(じゅ)と訳される梵語にマントラがあります。マントラは呪の他に「真言」と漢訳され、真言とは真実の言葉です。ここで言う真実は、仏教思想の「さとり」の意味として用います。
真言とは「さとりのことば」ということであり、絶対の真理そのものから発せられる言葉です。さとりのことばであるから、相対的・合理的角度では意味も分からず、ときには解釈も出来ない場合があるのは止むをえません。この意味で、陀羅尼は、無義語の内容を持ちます。しかし、私たちの言葉は意志を疎通するための言葉ですから、無義語であってはなりません。「ありがとう」という有義語(意味のある言葉)に、全身を投げ込んで、ありがとうの言葉と一体になって”ありがとう”と口をついで出た場合、その時初めて、自他が一つになった絶対の一言になるでしょう。この時の一言は、有義語でなく無義語です。人間の言葉であって、しかも相対を超えたさとりの言葉になったのです。だから、この”ありがとう"は真言であり、陀羅尼に他なりません。誰かの言葉に「言葉が通じないのが、畜生や地獄の世界。言葉を必要とするのが人間の社会。言葉が不要なのが極楽浄土」なかなか趣(おもむき)のある発言ではないでしょうか。 と記してあります。

 

 

子供叱るな、来た路じゃもの

こども叱るな、来た路じゃもの、年寄り笑うな、行く路じゃもの』これをあなたはどう思いますか? これが事実です。これからの人生に於いて、生き方を変えるようではないですか? 
 

いかにすれば、人は心の安らぎを得られるか

鳩摩羅什(くまらじゅう)の漢訳にはない梵文原典の「薬草喩品」の末尾は、次の詩で結ばれます。(一部掲載)
われわれをつつむ環境が幻と夢とを自己の本性としている。
私達は、自分自身をはじめとして、私たちを包む環境や事柄の本質がすべて空であり、その存在も因と縁との出会いによって生ずる無我の現象である。
このように知る者は、この世にあって煩悩に束縛されるという感情も起こらない。煩悩の束縛感が無ければ、(煩悩から)解放されるとか解放されないという気も生じない。
このように、自制(ものそれ自体の本性)を隈なく知る者は、心の安らぎを見ることが出来る。又、すべてに執着心を持たず、また、あれとこれ、これとあれと比べて見ようとしない者(たとえば、病気の時に、あたら健康時と比べようとしない人)は、偉大な理知(道理と知恵)の持ち主であって、教えの本体を残らず見て、声門・縁覚・菩薩の三種の教えの区別があるわけではない。この世には唯一の教えがあるということを知る。
一切のものは同じで、すべては等しく、常に平等に等しい。
諸法実相というのは、前記したように、諸法(宇宙観に存在する有形無形のあらゆる物事・現象)に、等しく真理・真実が表されているという法華経の中心思想です。

 


 

人間の生き方

薬草喩品は、「三草二木の喩」とも言われています。今までに人間の価値や区別、放逸などについて学んできました。釈尊の最後の説法もまた「汝(なんじ)、放逸することなかれ、当に精進すべし」でありました。慶応大学の学長された小泉信三先生が残された多数の名言の一つに、「天才とは、生まれつきの才能を持つ人を言うのではない。努力する心を豊かに持つ人のことである」と言うのがあります。よく世間で「適材適所」と言います。しかし、適材と見られた本人が「俺は適材適所」だとうぬぼれて努力を怠ったら、たちまちのうちに「不適剤不適所」の汚名を受けるようになるでしょう。ここにも「この世の人間は差別はないのであるが、かれらの意欲によって、人間は区別されるのだ」という「薬草喩品」の詩句が読み取れます。法華経のいう意欲を、現代感覚で消化するなら「おれさまでなければ、これはできるものではないぞ」と自分なりの「力のたえる所に任せ」て全力投球するなら、学歴やその他のさまざまな障害も、その人を遮ることは出来ない、ということになるでしょう。

人間の意欲によって区別

人の価値は、出生ではなく、行為で決まる。釈尊は少年の頃からカーストの存在を悲しみましたから、釈尊の出生の本懐、平等性を説く言葉にもカーストの痛みが感じられます。
釈尊は「人の価値は出生ではない。何に生まれたからではなく、何を為したかによる」と、口癖のように繰り返し言っています。釈尊の生存中は、インドのカースト的人間観は是正つつあったようですが釈尊の滅後は、また昔通りになってしまったことは悲しい事です。
「本来、差別のあるべきはずのない人間が区別されるのは、かれら(本人)の意欲の有無による」何という厳しい人間批判でしょう。

釈尊は弟子たちに精進(はげみ)をすすめ、放逸を憎みましたが、釈尊自身も一生の間、この事を旨としました。「放逸」とは、通常「なまける・怠る」の意味に採りますが、「時を空しく過ごす」ことだと考えます。「放逸」は、なまけるのでも怠るのでもなければ、仕事をするものでもない。いわゆるボサッとして、貴重な時をむだに過ごすのです。こんな人間が一人でもいたら、その場の空気はたちまち腐ってしまい、やがては、その人は誰にも相手にされなくなってしまうでしょう。「人間に区別はなくても、かれら(自分)の意欲によって区別」されていくのです。

釈尊の出生の本懐

何としても一乗法を人々に説かねばならぬ。その決心の為に、釈尊はこの世に生まれたのです。それがすなわち、釈尊の「出世の本懐」(この世に生まれた直接の目的、本意)であり、法華経が開示されたゆえんです。又、生れた目的は唯ひとつの偉大な仕事とはいったい何であろうか。それは如来の知恵を発揮して人々を鼓舞するためであって、そのために如来はこの世に出現するのである。如来の知恵の発揮を人々に示すためであり、それを人々に理解させ、分からせるためである。
「この世の人々は、みな程度や能力が異なっている。よってその差に応じて、その人に適応した導きを与え、すべての人を救わずにはおかない。全ての人は、自分に合った教えによって、仏性を開発されて仏に成れるのだから」というのが、釈尊の「出生の一大因縁」です。以上で、法華経における「三草二木」の比喩の重さが計られるでしょう。あわせて、釈尊の教育理念もうなずけるでしょう。
「人それぞれの性質は、それぞれ違いがある。賢い者・愚かな者・励む者・怠ける者など、それぞれの性格をよく見て、それに応じた法をあれこれと限りなく説いて、みんなを喜ばせ、それぞれに利益を得させた」人に個人差はあっても、その差に応じた所得があるなら、よろこびも平等に得られるわけです。いかに素晴らしい教えでも、受ける側が不足や苦痛を受けるようでは無意味です。

 

 

一乗法とは

すべてを包括した絶対一の教え

法華経以前には、声聞乗、縁覺乗、の二つの教えがありました。他に菩薩乗、の三つの教えがありました。合わせて三乗と言います。しかし、三乗の教えのすべてに通じて言える欠点は、ただ自分中心の勉強やさとりであって、他のことを考えないことです。この意味で小乗(小さな教え)と非難されたのです。こうした小乗教に対して、般若経や華厳経や法華経は、すべて「誰でもみな仏になれる可能性がある」(悉有仏性)と説き、また、「自分だけではなく、他人をもさとらせて、しあわせにすべきだ」とすすめます。法華経では、ただ一つの真実の教えとして一乗法を説きます。一乗法を一ことで言いますと「いのちあるものはみな仏になる」という教えです。したがって、一乗と大乗とは同意語になります。現代の仏教書でも一乗と大乗とを同じに解釈しています。一乗法の呼称は、大乗教と三乗教とを包括して、絶対一の教えであるという事実を示唆します。日本では、聖徳大師が一乗法をこのように理解された最初の一人です。

 

 

執着心を乗り越える知恵(1)

「平等」にも「差別」執われない「清浄心」の境地とは

これも比喩です。人はおのおの素質や能力の違いがあっても、仏の経化を受けるなら、いつかは皆各自にさとりを得て、世を救う者となることを、この比喩では三草二木に喩えて説いてあります。この比喩は平等と差別に関して深い示竣を与えています。すなわち、平等と差別の二つの現象を「一乗の法」といいます。つまり、法華経の諸法実相の考え方を、平等と差別を乗り越えた一乗の法で認識することを、分かり易く示す大切な比喩なのです。
般若の思想は、やがて枯れゆく無常の存在と見る。又一本の草も一本の木も、単独で存在できるのではなく、太陽の光や空気や水など、無数の縁との関わり合いによるものであるから、縁の価値を肯定するのが般若の考えです。法華経の思想は、般若が、このように存在(諸法)を、それぞれ仏の知恵と慈悲とをありのままに表現する実相そのままだと考えます。つまり、般若の肯定をさらに肯定するもので、これは法華経の教えが ”現実肯定”
だと言われるゆえんでもあります。
同量の雨を受けた草木でも、生長の度合いはみな違う 釈尊自分の説法を、大小さまざまの草木に降りそそぐ雨にたとえて、語られているわけです。

信解品第四より

幼い頃父の家を出て、五十年も諸国を放浪している貧しい男がいた。父は、一人しかいない幼い子を探し続けたものの、どうしても見つからず、自分もある町にとどまり、成功して大きな財産を築いていた。そんなある日、貧乏のどん底にあえぐその男が、父の屋敷とも知らず、雇ってもらおうと門の前まできたものの、あまりの豪華さに圧倒されて、走り去る。父は、「息子にちがいない」と思いその男を屋敷へつれてこさせた。使用人を使って「便所やドブの掃除を一緒にやらないか」ともちかけて、安心して働かせ、息子を観察しずける。
二十年も働いていると、男は本来の素直な心を取り戻してきた。父は、病気になると、蔵の管理を息子にまかせ、臨終が近づくと、親戚一同を集め、初めて、父子の名乗りをあげ、全財産を息子にゆずり渡すのである。大長者の父は
仏であり放浪する息子は衆生なのだ。 息子は自分が仏の子であり、仏性をそなえていることを知らずにさまよい歩いている衆生を、仏は、その卑屈な心を自然に温かく導いて、自己の本質に目覚めさせ、その尊さに気づかさせるのである。「信解品」の魅力は実に大きい。
困っている時にこそ手をさしのべるのが慈悲なのだ。人々は、人生の大切な時間を、やたらと自分の欲望のままに、無意味なことに消費していないだろうか。と記されています。

 

 

 

この世界は火宅の如し

この比喩は、父親が留守の間に邸宅が火事になるという話です。父の大邸宅が燃えているのに子供達はその中で遊んでいる。その子供達とは我々無明に悩む衆生で、大邸宅は娑婆の世界なのです。この比喩は火宅の中に居ながら、それに気づかぬばかりか、そこにしがみついて苦しんでいる衆生の姿をリアルに描いている。
火宅の中で貪・瞋・痴の炎を燃やして遊んでいるのが、世間の人々のことなのだと、釈尊が教えているのを知ることが出来る。火宅の衆生は皆世間の欲心に惑わされて、つまらない事に執着し、自分で自分の人生を苦しいものにしまっているのです。
「諸苦の所因は貪欲これ本なり」なのです。衆生は欲望を追い求めて、執着する心が深いので、「仏の知恵」を聴こうとしない。そういう人々に心の平安はない。釈尊は衆生の苦しみを少しでも取り除いて、平安な人生を生きるようにと願って下さっているのです。

 

 

人生の指針であるから

今なぜお経なのか?お経は葬式や回帰の時にだけに挙げるものと思っている方が、ほぼだと思いますが。お経とは人間の生き方を指針しているのです。中でも法華経は、いろいろな譬話(たとえばなし)で生き方の指針を示しているからです。法華経は難しいと思っていますが「法華経に学ぶ、生きる力の泉」赤根 祥道著は誰にでも分かるのではないかと思う本ですので一度お読みください。
今日はその中の一節を紹介します。
人生を送る中で「諸法実相」が法華経の教えです。「諸法実相」とは、この世のすべてのものごとのありのままの姿を見極めることです。
人生は七転び八起きだ。生きていることがどんなに素晴らしい事か仏性にきずけばわかって来る。仏の心があってこそ、自他一体となれるのだ。自分の周りで起こっている出来事を、どう見るかで人生の味わいが変わってくる。
朝の来ない夜はない。高く飛ぼうと思うものは、まず低く飛べ。ということです。

 

人生の過ごし方(1)

令和6年9月12日(木)猛暑日

人生の過ごし方は色々な生き方があると思う。苦しみばかりの人生だと言って、自分の運命を恨んでみても、何も変わりはしない。恨みにとらわれていては、心が狭くなり、ゆがんでしまう。今の人生がどん底ならば、そこから人間として正しく生きる道へはいあがり、それをひたすら実践していくことです。釈迦は四諦の法を説き十二因縁さらに八正道の実践を説いたのです。そうすれば必ず苦を乗り越えた境地に達することが出来るのだ。と言っています。八正道とは以前にも記載しましたが、真理に即した八つの正しい道ーー正見・正思・正思・正語・正行・正命・正精進・正念・正定の事です。

   日蓮大聖人(にちれんだいしょうにん)

真っ暗な日本海に向かって唱題する、日蓮の姿。
「現在の大難を思い続くるのも涙、未来の成仏を思うて喜ぶにも涙せきあえず。鳥と虫とは鳴けども涙落ちず。日蓮は泣かねども、涙ひまなし。この涙、世間の事にあらず、ただひとえに法華経のゆえなり。しからば、甘露の涙というべし」
日蓮も、法華経の文字をたんなる文字として読んだのではありません。彼は、文字をも比喩であるとして「今の法華経の文字は皆生身の仏なり。われらは肉眼なれば文字と見るなり」と言います。文字は生身の如来だが、我らは人間だから、人間の目で見るから、文字が文字としか見えないのだ、と言うのです。このように、法華経は深い真理を多くの比喩によって表現しているのです。

 

読経眼(どくきょうがん)

前回、比喩の話を書きましたが、法華経の比喩も、とりとめのない作り話として読まされるか、経典の語る様々な比喩の話の底に潜む真実が読み取れるかは、経典をよく読みこなす
「読経眼」を養うか否かにかかります。ものごとを平面的で実証主義的な見方に偏することなく、じっくりと見つめんとする、豊かで素直な心(柔軟心)これを取り戻そうと努めながら読むと、読経眼は自然に開けてくるものです。 と記されています。

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あかおぎ ひろし

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