読経眼(どくっきようがん)
「読経眼」とは、物事を平面的で実証主義的な見方に偏することなく、じっくり見つめんとする、豊かで素直な心を取り戻そうとつとめながら読むと、読経眼は自然に開けてくるものです。(法華経入門 松原泰道著より)
白隠は文字を超えた高次の”文字でない文字”を読み取る「読経眼」が開けたのです。
と書かれています。難しいですね。
読経眼(どくっきようがん)
「読経眼」とは、物事を平面的で実証主義的な見方に偏することなく、じっくり見つめんとする、豊かで素直な心を取り戻そうとつとめながら読むと、読経眼は自然に開けてくるものです。(法華経入門 松原泰道著より)
白隠は文字を超えた高次の”文字でない文字”を読み取る「読経眼」が開けたのです。
と書かれています。難しいですね。
冷暖自知(れいだんじち)
体験しないと分からないこと
冷たいか暖かいかは、自分で触ってみないとわからない。人が体験しただけでは、本当のところわかりません。その人にとって暖かかったり、その人にとっては冷たいかもしれませんが、その感じ方さえ様々です。自分で体験することが必要なのです。見ただけ、聞いただけの知ったかぶりで判断すると大きな間違いも起こします。物事の真の醍醐味は自ら近ずき、触って見ない事には味わえません。
且緩々(しゃかんかん)
まあ、落ち着いて
あわてるな。あせるな。肩に力が入りすぎ。落ち着きなさい。呼吸をととのえて。急ぐ人ははたから見ると滑稽です。どの道も、急いで極めることはできません。急がば回れ。
緊張したお客さまを迎えたら、まずはお茶でも召し上がれ。とこの一言をかけてあげたい。
人生だって、時にはふと立ち止まり、これで良いのかとゆっくり考える時間が大切。と書いてありました。ちょっと立ち止まって考えるのも一つの案ですね。人生は長いですから。
千里同風(せんりどうふう)
あなたの友は遠い空の下で
遠く離れていても、遠く離れていても、そこには同じ風が吹いている。
ある日、筆不精の友人から短い手紙が届く。そこに書かれた文字は、少なくても、行間に彼の気持ちが読める。同じ心境だな。今、この場所で見渡す空は何処までも続き、遥か遠くのその空の下に、同じ心を持った人がいる。同じように笑い。同じように悲しみ、同じように感じている人がいる。毎日見ている顔だけがあなたに共感しているのではなく、むしろ会ったこともない人々の頭上にもこの同じ空が広がり、同じ星を見ていることに思いを馳せましょう。
夢中夢(むちゅうむ)
「夜見る夢の作者は自分」という意味だそうです。あなたの見た夢は、あなたの記憶がつくったものと言えます。それもそのはず、あなたの心が描いた夢です。ヒーローもヒロインも、仇役もバイプレーヤーも、みんなあなたの知り合いばかりだったでしょう。あなたが夢の世界を広げてみたいなら、起きている間に、具体的な想像を働かせてみる事です。夜見た夢は形を変えて、あなたの現実を後押ししてくれるようになるでしょう。
歩々是道場(ほぼこれどうじょう)
何が無いから、かにが無いから出来ない。そんな言い訳を人を許さない禅語です。いつどこでも一歩一歩移動していくごとに、その場所こそが修行の場。いつも道場にいると思えということです。
生きているすべての瞬間が修行の場なのです。呼吸も姿勢も、歩く姿も、言葉のひとつも。
だから一瞬一瞬に気が抜けません。目の前にした朝食が、どこから来て、誰が運んできたか。自然の恵みの収穫と人の手を思えばキッチンも立派な道場です。
元気(げんき)
あなたの元気は順調ですか
世の中は「気」でみちている。流れる川にも、樹木にも、燃える炭にも、指輪にも、あらゆるものに「気」が宿っていて、その「気」は弱っていることもあれば、強く感じられることもある。その根本になるのが「元気」。
老若男女が頻繁に使う言葉のナンバーワンかもしれません。軽い挨拶言葉ですが、大珠慧海の「諸方門人参問語録」に出てくる禅語です。「お元気ですか?」というのは、この「元気」が好調に気を発揮していますか?と確認しているわけです。「元気」が活性化している時に物事に取り組めば、相手が人だろうと植物だろうと道具だろうと、波動のように「気」が伝わります。もしも「気」のない返事なら、ゆっくりそおっと、あなたの元気を伝えてください。
一雨潤千山
(いちうせんざんをうるおす)
誰にも同じように。という意味です。たったひと雨があらゆるものを平等に潤す。と言う言葉です。禅語では、すぐれた仏法がすべての人に恩恵を与えるという意味です。一部の人だけに役立つ仏法というのはありません。誰にも平等に人生や世界を教えてくれる。のが仏法です。僧侶にだけわかるものでもなく、外国人にも他の宗教の人々にも恩恵をもたらすものと考えていいでしょう。
吹毛常磨(すいもうつねにます)
修行に終わりなし
能力にあぐらをかいてしまったら、鋭さは鈍り、堕落がはじまる。優秀な吹毛剣でさえそうなのです。だから、常に磨き続けることが肝心です。修業に終わりはありません。
この言葉で常に磨けと言っているのは「吹毛剣」という剣のことです。吹毛剣の切れ味は、たとえば鳥の羽がふわりと落ちて来ただけでスパっと二つの切れてしまうほど。人間の煩悩やしがらみでさえ、みごとに切ってしまいます。
新旧をとりまぜてこそ
裂古破今
「いにしえをさきいまをやぶる」と読むそうです。
古いものは時代に合わない事があるものの、時を超え知恵もまた満載。逆に新しいものが無条件にいいなんてことはない。新旧にとらわれず、本物を選ぶ目を持って自由に組み合わせてお幸せに。 と記されてありました。
単刀直入(たんとうちょくにゅう)
相手の立場に近ずいて
玄関でもじもじしたって何も始まらない。人生は待ったなし。ピンポーンと玄関ベルを押してしまえば物語が始まります。相手を傷つけないように、単刀直入という「おもいやり」があります。持っていたいのは、あなたの不器用でシンプルな刀一本。いくつもの刀で小手先を使うより、自然な気持ちを一本に集中させてこそ単刀直入。重心を相手の立場にグッと近づける気合がなければ、ひょいとかわされてしまいます。
「会者定離」(えしゃじょうり)
令和6年5月4日(土)仏滅 夏日
「人生の目的」高森顯徹監修の本を読んでいると、ブッタの言葉が出ていました。
この本は人間は孤独であり生まれた時から死ぬまで一人孤独であると言っています。その中で、ブッタの言葉が載っていました。「会者定離」です。この意味は、会った者には必ず離れる定めがある、ということです。夫婦や恋人、パートナー、親子、親友などとの出会いがあれば、必ず別離の時がやって来るのです。自分の死ぬ時には大事な人たちと永久の別れが必ずくるのです。と記載されていました。人生のパートナーを亡くした一人孤独の方の読む本ではないかと思い購入して読んでいます。
洗心(せんしん)
お寺の手水鉢は、手を洗い口を清めるだけでなく、心も洗うために置いてあります。汚れた心を洗うため。つまり改心してから修行に向かいなさいというわけです。改心などは普段すっかり忘れています、心を洗うこと。
祈祷を受けに行くのでも坐禅修行でも、むしろ観光で立ち寄った時にも、神社仏閣、神聖な場所へ行くときはいつでもこの事を思い出して、そのたび「洗心」してみてはいかがでしょう。心の曇った部分を良く洗い流す。錆びたり固まったりしていませんか。そのカビは、ずいぶん心を放っておいた証拠です。心を洗ったあとは、ありがたい言葉がスーッとしみて来るようです。
画餅充飢(がべいじゅうき)
令和6年4月21日(日)先負 晴れ曇 四緑木星中宮日 きのと う
その地域振興プラン、絵に描いた餅になっていませんか?
役に立たないのもを有難がって大事にして、そのために本物を見逃してしまうことのないように、その餅が絵なのか食べられる餅か、よく見極めていきましょう。
森を守るイベントと言うけれど、車でやって来て木の根っこを踏んづけながらデスカッション。本当に森のためになるのか、素晴らしいテーマは絵に描いた餅か否か。
気休めは辞めて下さい。時間の無駄だし、二度と信じられなくなってしまう。
つきたての餅の湯気や、焦げる餅の匂いに敏感に。そう、いつでも「五感」が絵に描いた餅かどうかを見抜いてくれます。
忘筌(ぼうせん)
マニュアルをわすれてこそ と言う事です。
接客マニュアル通りの仕事を始めます。マニュアルを手放さず一言一句丸暗記して実行している。何所が悪いと言う社員。一方、マニュアルから離れた社員がお客様を心からお迎えする。「いらっしゃいませ」と言わずに「お久し振りでございました」とマニュアルにないセリフ。
目的を達したら、それまで使っていたマニュアルは忘れましょう。暗記が目的だと勘違いしないように。魚を捕ったら、もう漁具(筌)の事は忘れようと言うのがこの禅語です。
あくまでも、忘れていいのは手段です。初心はお忘れなく。
喫粥了(きっしゃくりょう)
令和6年3月25日(月)
「茶碗は洗ったかい」と言う意味だそうです。食べるのも一緒なら、食べ終わって茶碗を洗うのも一緒。千年たっても変わりません。
食べ終わって茶碗を洗うのに、夫がとか妻がとか、忙しいとか暇だとか、稼ぎがいいとか悪いとか、まったく関係ありません。
日常のすべてが修行です。禅寺では炊事係を「展座」といい、食事を作る心を修行とし、食べる時も「五感の偈」を唱えます。 と書いてあります。何か思い感じますね!(^^)!
帰家穏坐(いえにかえりておんざす)
「迷ったら帰るところ」と言う意味だそうです。
あつちへ行ってぺちゃくちゃこっちへ来てぺちゃくちゃ。
広い世間には、必ず悟りのきっかけになる出会いや、いい方法があるはずだとウロウロ。
「まあまあ、落ち着きなさい。ウロチョロしないでまずは家に帰りなさい。そして黙って坐って見なさい。そここそが本当の自分の場所あるとわかるはず」というのがこの禅語です。
そのためにも「家和万事成」が大切です。みんなが寺で坐禅を組んでいるからと、真似する必要はありません。迷ったら、お帰りなさい。と書かれていました。
禅語の「家和万事成」については後日書きます。
春來草自生(はるきたらばくさおのずからしょうず)
自然の流れに逆らわず
その年齢にならなければわからない心境。その時が来なければわからない心境があります。
春が来れば、草は自然に生えてくる。草が自分の意志で生えてくるのには、その時を待つ以外にない。という禅語です。
自分からやる気にさせるには、その「時」を待つことです。親や先生や上司に言われたからと仕方なしにやっているうちは芽は出ません。無理矢理に芽を出してみたら、幼いうちに冬が来て、いっぺんに凍えてしまうのが関の山。自然の流れには逆らえません。
人間性を
「仏性」について法華経の解説書を読んでみると初めに書いてありました。「仏性」とは何だろうか。
現代は、心の荒廃の時代と言われていますが,荒廃どころか「心の焼野原」を悲しまずにはおれません。悪徳の業火で焼け尽くした人間の心こそ、新生の息吹に期待したいです。と記されています。
人間性(仏性と言う)の存在を信じることです。この仏性を開発する努力を怠らないなら人間復興は可能です。私たちは、何よりも先ず人間である事実を確認しましょう。人間は人間であることに目覚めて、はじめて、人間になれるのです。人間を最終的に救うのは人間の目覚めです。人間が人間を救わなかったら、誰が人間を救ってくれますか。今一番しなければならない事は、人間が信じあう事です。どのような人でも、その人の心の奥底に、人間を人間たらしめる「仏性」が埋め込まれていると言う事実を信じることが、いま何よりも大切です。と記されていました。
香厳上樹(こうげんじょうじゅ)ピンチの時は
香厳という和尚さんが出した難問です。
この禅語は、絶体絶命のピンチの時こそ頭で考えるなと教えてくれています。
その時こそ、自分が一番やりたいことをやり抜け、というのです。
自分が今やっていることに自信を持って、ピンチに立ち向かえと言っています。
担当者:ライフアドバイザー
あかおぎ ひろし
人は誰も幸せになるために生まれてきたのです。
自分や家族のいろいろなお悩みの相談を受けています。
汝、悩むことなかれ。どんな人でも悩みの無い人は居ません。
早く心と気持ちを軽くして、前を向いて生きて行きましょう。
多くの方が心と気持ちを軽くして幸せになっています。
どんなことでもご一報ください、無料で相談させて頂いています。
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