人間の意欲によって区別
人の価値は、出生ではなく、行為で決まる。釈尊は少年の頃からカーストの存在を悲しみましたから、釈尊の出生の本懐、平等性を説く言葉にもカーストの痛みが感じられます。
釈尊は「人の価値は出生ではない。何に生まれたからではなく、何を為したかによる」と、口癖のように繰り返し言っています。釈尊の生存中は、インドのカースト的人間観は是正つつあったようですが釈尊の滅後は、また昔通りになってしまったことは悲しい事です。
「本来、差別のあるべきはずのない人間が区別されるのは、かれら(本人)の意欲の有無による」何という厳しい人間批判でしょう。
釈尊は弟子たちに精進(はげみ)をすすめ、放逸を憎みましたが、釈尊自身も一生の間、この事を旨としました。「放逸」とは、通常「なまける・怠る」の意味に採りますが、「時を空しく過ごす」ことだと考えます。「放逸」は、なまけるのでも怠るのでもなければ、仕事をするものでもない。いわゆるボサッとして、貴重な時をむだに過ごすのです。こんな人間が一人でもいたら、その場の空気はたちまち腐ってしまい、やがては、その人は誰にも相手にされなくなってしまうでしょう。「人間に区別はなくても、かれら(自分)の意欲によって区別」されていくのです。