*「不垢」(ふく) きれいなもの
きれいとか汚い、といった印象は、相対的なものであります。時代や国、風俗、習
慣そのも左右されます。何が絶対的に“垢〟(きたない)であり〝不垢〟(きれい)
であるか、というような基準はないといってよいでしょう。
私たちが迷いの眼をもって〝垢〟〝不垢〟と差別しているあらゆるものが、あくま
でも相対的な判断でしかないと分かります。お経の「不垢」は、世の中のあらゆる
ものは「空」なのだから、汚れたものなどないと言っているのです。
*「不浄」 (ふじょう) きたないもの
「永遠の美は幻に過ぎない」
私たちが“美しい“浄らかであると考えているものもまた、相対的な判断にしか過
ぎないと言っています。これが「不浄」です。
仏教の修行の方法の中に“不浄観というものがあります。私たちが生きることのみ
に執着したり、欲望を持つことから離れるために、いかに人間が“汚いもの“けが
れているものであるかを認識する、というものです。
どんなに若くて美しい女性でも、やがて老婆になれば醜くも汚らしくもなります。
“美しいということは人生の一時期での現象です。“永遠に変わらない、というもの
ではない。現在でも、その腸の中には糞尿が一杯詰まっているはずです。このよう
な真実を見極めることも、人生にとっては大切です。
きれいなものの裏側には必ず汚いものがある。永遠に浄らかなるものなど、ただ
の一つもないのです。そういうことに一瞬でも早く気付くことが大切です。
浄らかなものでもない、すべて「空」なのだから、と説いているのです。
早くく気付いて迷いから抜け出して安らかな人生を送りたいものですね。