続き
*不生(ふしょう)
お経の中での「不生」という意味は、この迷いの中のあらゆる存在・現象のいずれもが実体のないものである以上、“生まれる〟ということも実体がなく、単に一時的な仮の姿の表れにしか過ぎない。ということを言っているといいます。
現在の一人ひとりの人間は、過去における自分自身の「業(ごう)」、すなわち行為の結果としてこの世に生まれたといいます。これが仏教における輪廻転生の思想であるといいます。ということは、少なくとも「私」という者が、無から生まれたわけではないことになりますね。
したがって、「私」という現在の存在は、過去から未来にわたって変化しながら存在し続ける「空」なるものの、一時的な仮の姿ということになります。
それならば、現在の人間として生まれた、という現象も、変化の姿の一つに過ぎないのだから、もともと「生まれた」などという実体はないことになります。
ひとりの人が生まれる、という現象には、今までなかった生命の誕生、といった印 象を与えます。科学の目から見ても、精子と卵子にそれぞれ存在する父と母の遺伝 子を受け継いで一個の生命となるのですから、何もないところから突然生じる分けではないのです。業といった考え方にしても、過去における先祖代々の人間の遺伝子であると受け止めれば、別に荒唐無稽な考えとは言えないでしょう。
「業」に中には、外面に表れた身体や口による行為だけではなく、心の中で考えたり
思ったりしたことも積み重ねられているから、その中身は極めて複雑です。
もしこの業が輪廻の主体であるとするなら、過去世より現在世へ、さらに未来世へと
永遠に転生を繰り返すことになって、いかにも業そのものが実体であるかのように思われますが、しかし業そのものは一瞬一瞬その瞬間における身・口・意による行為を付け加えてゆくので、同じ状態で継続することはない。したがって、変化してゆく業には、業としての実体もないといえます。
〝子供を産む〟といった言葉の使い方がありますが、いかにも自分達の意志によって生んでいるかのように思っていますが、よくよく考えてみると、縁すなわち様々な条件が備わっていなければ絶対に子供は生まれてこないし、ましてや、願い通りの子供が生まれるとは限りません。それは、こどもは〝与えられた〟ものであっても、決して〝つくった〟ものではない、つまり実体がないのですから。
難しい話になってしまいましたが輪廻転生によって現在の自分が存在するという。 つづく