2月10日の新聞のコラム「一服どうぞ」で裏千家元家元 千玄室さんの記

事がありました。表題は・人間だれしも「鬼」になる・です。

節分の由来が書いてありました。鬼は実際に居るわけではない。自分自

身があるときは鬼になっているのである。心の中で善と悪とが闘っている

毎日であることを省みれば、何かの機会に悪を払い、善に向かうと言う決

意を示さなければならない。

現代人はすべて何らかの悪鬼になっている。正しいと思っていても自分の

うぬぼれであり、かえって人に迷惑をかけていることもある。

全く私たちは何時も嘘いつわりの世界に常在しているのであり、自分をな

だめすかして生きているようなものである。一度豆を自分にまいて、自分

の中に棲む気弱さや悪を除けば如何なものだろうか。

あるとき悟りを開こうと努力していた一人の僧が巴陵(はりょう)という禅師

に「如何なるか是提婆宗」と問うた。このインドの提婆尊者は仏教外の信

者だったが、悟るところあって仏教に転向した人である。そして大徳(徳を

積んだ人)と呼ばれていた。

この問いに対し禅師は「銀椀裏に雪を盛る」と答えた。よく善の問答で「如

何なるか是仏法」などと言う。それと同じだが、かつての洞山禅師はそうし

た問いに「銀椀裏に雪を盛り 明日に鷺(ろ)を蔵(かく)す」と答えられた

が、その前句を巴陵は用いたのである。

真っ白な銀の椀に真っ白い雪を盛ればどちらが椀か雪か分からない。見

分けがつかない。それでは一つになっているかというと、そうではなく雪と

椀とはあくまでも別のもの。すなわち自分と他人とは一体ではない、不一

不二を示す。

人間は集ずれば差別し争いをする。しかし、雪も銀椀もない無の真実を知

ることによって「我」が存在するのであることを訓されたのである。

もし気に入った者同士が集まったとしても何かの機会に分裂する。信や情

や絆がといってもそれが消失してしまうのが、人間社会である。今年は豆

を周辺にまいて己をかえりみる機を作ることが大切な事である。

と言うように書かれていました。何か身につまされるような言葉ですね。

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あかおぎ ひろし

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