仏を供養し衆上を救済し続ける

妙音菩薩は三十四身に姿を現し、衆上の程度に応じて法を説いていく。また、仏の理想の世界から、現実の娑婆の世界へ訪ねてきた妙音菩薩大神力が、どうして身についたかを、釈尊が丁寧に説き聞かせているのである。
自分のことは後回しにして、仕事で儲けたお金を、交通事故で父親を亡くして困っている人々に用立ててあげている。とくに、働きながら勉強しようとしている学生たちには、奨学金を出している。そればかりではありませんよ。一度縁を結んだ学生の就職から結婚まで、あらゆる点で、親以上です。周りの人を助けていけば、自分の幸せにつながっていく。人生には、いろいろな苦労があるから、苦労がこびりついてしまう。これを洗い落とすには、どうしても「法華経」の力がいるのである。

 

 

自分を捨てていけば必ずすばらしい人生が訪れる

自分の身を捨てて、他人へ献身することは、なかなかできることではない。まして、この世の中は、自分をどうして守っていこうかということばかり考えて生きている人たちの集まりなのである。決して、やさしいことではない。しかし、自分だけが良ければ、それで幸せが来るのかと言えば、本当の幸せははやってこない。自分を捨てて、他人に献身することができれば、これが本当の幸せなのである。
人間としてこの世の生まれ、喜怒哀楽のうちに、七転八倒の毎日を送っている。その中にあって、自分の人生を捨てて献身していく事の出来る人ほど幸せなものはない。
自分の利益をはかる前に、相手の利益をはかる。自分の身を守る前に、相手の身を守る。自分を誇る前に、相手をたたえていく。こうした心の中に、「仏の智慧」が住んでいる。「仏の智慧」を自分の智慧として実践していけるならば、人生にとってこれほど安らかで充実したものはないのである。 

 

努力が無ければどこにも安楽な場所はない

この項もまとめだけを期します。
今いるところが道場なのだと思って、耐えて修行する。そこに救いがあり、道があるのだ。家出してどこに行っても、今より安楽なところはないことを知ることだ。今いるところで修行するのだ。どこでなにしようと、
すべて、今いるところが道場なのだと肚をすえてかかっていくことが何よりも大切なことだ。そうするうちに、今ここで努力していることに感謝する心が生まれてくる。今いるところが自分の人生の真ん中なのだとわかってくる。光が差し込んでくる。人生を自分の力で生きる覚悟が大切なのだ。
「如来神力品第二十一」は、釈尊や諸仏が神力を現し、真理は一つであることを強く印象づける章である。「法華経」の功徳と、娑婆世界もその神力によって、ほかの仏の国土と同じように光明に満ちあふれる不思議さが、くわしく語られる。娑婆世界に、南無釈迦牟尼仏という大合唱が起こって、一切を清浄にしていくのである。地から沸き起こった菩薩たちが、釈尊に対して、大歓喜の心で、「法華経」を未来永刧に守護し、布教していく事を誓うと、釈尊は、その眼前で、大神力を現した。その不可思議・神秘的な現象は、如来の慈悲と「法華経」の偉大さを表している。

 

 

 

常不軽菩薩品第二十

この項も要点のみを記載します。
この章には、常不軽(じょうふきょう)という菩薩が登場します。どんなに排斥されても、その人を「常に軽ずることなく」拝み続けた菩薩です。釈尊は、五種法師の素晴らしい功徳について説き、これらの法師をののしったり、悪口を言ったり、欠点をあげつらったりする人があれば、大きな罪の報いを必ず受けると述べ、正法・像法・末法の世に威音王如来(いをんのうにょらい)がどう表れたかをといてゆく。この常不軽菩薩は釈尊の事である。
人と人の関係は実に難しい。昨日までは、親の仇のようにののしっていたのに、今日は、うってかわって妥協の連続である。昨日までの悪口雑言はどうしたことなのだろうか。利害によって人は動く。平気で敵になったり味方になったりする。攻撃してき、その十倍もの勢いで叩きのめすのが、俗世の生き方だと信じている人が多い。相手を信じきるのが、どんなに心の平安につながっていくか、誰でも知っている。どれだけ良いかわからない。
悪口雑言を投げつけられても、「あなたも仏になれる」と唱えて、合掌していく心を作らなくてはならない。人生の苦悩は、こうして超えていけるのだ。

法師功徳品第十九

法師功徳品第十九の要点を記載します。(法華七喩でないので割愛します)
信仰者のことを、出家・在家にかかわらず法師と呼んでいます。その法師がなすべき行について五つ上げている。受持・読・誦・解説・書写である。五種の行をする信仰者を、五種法師とよぶ。「その人とは、まさに八百の眼の功徳・千二百の耳の功徳・八百の鼻の功徳・千二百の舌の功徳・八百の身の功徳・千二百の意の功徳を得る」「その功徳をもって六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)の作用が美しく清らかなものになるのです」
「法師功徳品第十九」は、
『法華経』を信じ、五種の行を実行していく法師に、六根清浄となる功徳が与えられる事を説いている。すべての事が見通せる力をもてるようになる。その功徳を通して、真実を知る力をそなえるよう、励ましているのです。

 

随喜功徳品第十八

今回は、随喜功徳品第十八の解説ですが、中身を、まとめて記載します。
巨額の財産を築いていても、その貧欲さのために、人々から嫌われて、誰一人寄り付かないのを寂しがる人もいる。誇らしげな豪邸に遊びにくる友人は一人もいない。一体何のための人生なのか。金銭のとりことなって、一生を過ごしてしまってよいものだろうか。人生は、心の豊かさが財産なのではないだろうか。
人生は、不思議な縁に寄って組み立てられている。その縁に喜び、喜びの心を他に伝えていく事が出来れば、人生は幸せとなるのである。これが随喜功徳品十八の内容です。

善を進める

「人生、一生懸命生きれば、それで十分ではないでしょうか。一日一日を充実して生きていく人は幸せです。金銭や地位の問題ではありません。日本は金持ちになり、驕り高ぶっているように、世界の人々から見られはじめている。インドで貧困の人々の苦しみを、自分の事として生きているマザー・テレサ尼は、日本人の援助の仕方について、批判している。貧しい者同士が、その苦しい人生をいたわりあい、分かち合うのが布施の心です。布施は心の問題なのです。布施の心は、相手の苦しみや悲しみを、分かち合うところから起こってくる。
自分だけが、リッチマンになれば、幸せがやって来るのではないかと、日本人は敗戦のどん底から勤勉一筋でやってきたが、ここで、布施の心を取り戻し、まわりの人々の苦しみ悲しみを分かち合える「柔和質直の心」を燃やして、万人の幸せのために、「不借身命」
(ふしゃくしんみょう)の生活へチャンネルを切り替える必要があるのではないか?
と記されています・

 

 

六波羅蜜を実践して

般若波羅蜜多こそ信解の中心になくてはならないのです。布施・持戒・忍辱・精進・禅定を行ずる大前提に智慧があってこそ、すべてが生きてくる。その知恵が、仏の寿命は無限であると信じることです。衆上が、仏の永遠不滅の生命を信じたうえで、五波羅蜜を行じてゆけば、その徳は必ず、釈尊の求めるところに近づいていくばかりか、自分も永遠の生命を得る。「人あって能くこの経を持ち、兼ねて布施・持戒・忍辱・精進・一心・智慧を行ぜんをや。その徳景勝にして無量無辺ならん」
「法華経」を読誦し、授受し他人のために説き、六波羅蜜を実践していけば、必ず「仏の智慧」に到達することが出来るのである。

般若波羅蜜多を中心に

衆生が「仏の智慧」に到達したいと、五波羅蜜をいくら行じていっても、般若波羅蜜多という「仏の寿命は永遠に不滅である」という一点を欠いていたら、「この功徳を以って前の功徳に比ぶるに、百分・千分・百千万億分にして其の一にも及ばず」というのである。
仏の寿命が永遠不滅であるということを、信じきっていけば、必ず「仏の智慧」に到達することが出来る。「仏の智慧」に到達することができれば、自分の生命もまた永遠不滅なのである。いくら修行をしても、この般若波羅蜜が欠けていては、修行にならないことを、釈尊は説いている。五波羅蜜の修行をいくらしても、仏の永遠不滅を信じなければ、その修業は完成しない。

生き方を学ぼう

分別功徳品第十七は、法華経を広める言葉が多く記されています。私にとって法華経の教えは、人生の送り方の教本です。いろいろなお経の本は読みましたが、一番よく人生の送り方を納得できるように書いてあるのが、この「法華経」でした。今でも誰もが理解できるような「解説書」読んでいます。「法華経入門」松原泰三著。「法華経に学ぶ」生きる力の泉。赤根祥道著です。
何度も書きますが、お経は、決して葬儀の時だけあげるのではなく、人生の教本です。あなたも是非一度、読んではいかがですか?


 

お問合せ・ご相談 

担当者:ライフアドバイザー
あかおぎ ひろし

人は誰も幸せになるために生まれてきたのです。
自分や家族のいろいろなお悩みの相談を受けています。
汝、悩むことなかれ。どんな人でも悩みの無い人は居ません。
早く心と気持ちを軽くして、前を向いて生きて行きましょう。
多くの方が心と気持ちを軽くして幸せになっています。
どんなことでもご一報ください、無料で相談させて頂いています。

パソコン|モバイル
ページトップに戻る