裏千家家元の死
令和7年8月14日(木)友引 猛暑 三碧木星中宮 きのと う
高校野球甲子園の試合を見ていました。ニュースで裏千家家元の死を知りました。
今年は有名人の死去の報道が多い様に思います。終戦から80年の年です。私の終戦日の記憶を載せようと思います。4歳でしたが、あまりにショックが強烈だったので記憶に残っているのでしょう。
時節は覚えていません。夕方、母が入浴中に上市(うわいち)の方が燃えていると言って急いで挙がって来ました。ダブルの外套、防空頭巾を被せられて、那珂川添いに駐屯していた兵隊さん、日赤の看護婦さんと一緒に避難しました。父親は、小さなトランク一つを積み自転車に乗って他所へ避難しました。私たちが避難したのは、枝川の近くのその当時あった刑務所(現市毛刑務所)のタチブ(トゲの長い木で当時の刑務所の塀替わり)の下でした。皆で身を寄せ合っていました。焼い弾や爆弾の落ちる光が雨の降るように光って奇麗だったことを覚えています。時間は覚えていませんが一晩だったよな気がします。皆ぞろぞろ大勢の人がおりました。父親と待ち合わせて帰宅しました。手を引かれて家路に向かったのですが、途中家がくすぶっていてほとんどの家が燃えて無くなっていました。一時間ほど歩いて来たのですが死人は記憶にありません。自宅に帰ってみると門柱が一本くすぶって残っていたのでした。隣りの専売公社のタバコ工場は無残にも焼けてありません。斜め向かいの家は焼け残り角にお稲荷さんがあり松が植えてありました。自分の家は専売公社のタバコ工場の門の前の十字路の反対側で、小さな商いをしていましたが、帰りが遅かったため防空壕は誰かに掘り返され、タバコや塩・その他の食品などの売り物は、一つもありませんでした。後々掘り返した人を見た人がいて連絡をくれたようです。
お地蔵さんの松の木の下でムシロの上で夜を明かし、初めて焼き米を食べました。火事で焼けた俵から手づかみで取って食べました。何日か米を食べていないので凄く美味しかったのを覚えています。道の横の下水道は焼けたゴミで埋まっていました。その後は記憶にないです。
当時アメリカは、焼夷弾を筋蒔きのように落としていったようです。何百メートルか置きに焼けない家がありました。裏の城東小学校の校舎は焼けてありませんでした。これが私の戦争の記憶です。