「照見五蘊皆空 度一切苦厄」(しょうけん ごうん かいくう ど いっさいくうやく)
読み下し文:五蘊皆空を照見して一切の苦厄を度す。
「五蘊」:二千五百年前の仏教の世界においては、人間を構成するものは「身体」と「心」の二つであり、その心の働きをさらに四つに分類して、計五種類としていた。
「色」が“形あるもの”ということで肉体の総称であり、「受想行識」(じゅそうぎょう
しき)というのが心の四つの働きです。
五蘊とは
肉体:色(しき) 形あるものすべて
精神(心):受(じゅ) 感覚
想(そう) 記憶
行(ぎょう) 意思
識(しき) 知識
これらをまとめて{五蘊}と読んでいます。仏教では、このような五つの構成要素からなる人間の存在そのものが苦であると考えるのです。
いかにも独立した一個の存在のように思える個々の人間も、結局はこの五蘊の構成要素が、さまざまな条件の下に一時的に合成された姿であるから「空」であるという。これがこの経典の主張なのです。
「空」とは:“有るような無いような”ものこそが「空」。現代風には“実体無きこと”
といえるのではないでしょうか。
「照見」とは:私達は二つの眼を持っている。その眼は本当に物事をしっかり見ているかというと、はなはだ怪しい。物理的には確かに眼によってさまざまな物や現象を見ていま
すが、それは単に表面的に見ているに過ぎず、多くの場合、それらの本当の姿に気が付いていないのではないでしょうか。美形で背が高く頭も良い、と見定めて結婚したはずの女性が、妻としてはまったく不向きの人間だった、と後に気が付く。容姿や学歴、家柄といったものに眼を奪われて、内面的なものを見抜くことが出来なかったからでしょう。
同じことは夫の場合にも言えます。
だからこそ、あれほど好いて好かれて一緒になったはずの夫婦が、現代のように、何秒かに一組の割合で離婚することになるのです。人間というものは、きわめて不完全なものです。このように外見に惑わされるのも自然なことなのかもしれません。
しかし、すべての人々を救済しようとする観音菩薩は、そんな表面的な現象だけを見てはいない。「この世の真実」を見たのです。
お経の中の「照見」というのは、“この世の真実”つまり五蘊はすべてか空なのだ、と見定めたという意味なのです。照見とは単に現象的、表面的な面を見るのではなく、物事の本質を見極めることなのです。 つづく